イスラエルとパレスチナ、過去に先送りにされた問題が噴出した抗争

Palestine

パレスチナの民間人が自らの力で抵抗する

第4次中東戦争でエジプトが離脱したことで、アラブ民族によるパレスチナ解放闘争の主役はパレスチナ解放機構(PLO)に移行することになりました。1974年にアラブ連盟から「唯一の合法的なパレスチナ代表」としてPLOが認められており、国際連合でもオブザーバー国家の資格が与えられていました。

PLOは、レバノンベイルートに拠点を置き、3代目議長アラファトのもとで、イスラエルに対して越境攻撃をたびたび繰り返していました。PLOによる越境攻撃に痺れをきらし、イスラエルが1982年6月、動員をかけてレバノン領内へ侵攻しました。イスラエルによるPLO討伐作戦を開始され、レバノン戦争へと発展していきます。

イスラエルに対してPLOも激しく抵抗はしたのですが、元々の武力の差は埋めがたく、イスラエルの侵攻後3カ月の9月には、PLOレバノンから全戦闘員のを退去するように迫られ、チュニジアチュニスに拠点を移すことになりました。

4次にわたる中東戦争の敗北とエジプトの離脱、さらにレバノン戦争との敗北と、度重なる敗北による挫折に打ちひしがれたパレスチナのアラブ人にもある変化が起こります。イスラエルによるパレスチナ地方の占領地への入植活動でした。

国連はかねてからイスラエルに対して占領地の返還を求めていました。しかし、イスラエル国連の返還要請を無視して、占領地へユダヤ人を住まわせる入植活動を推進していました。イスラエルには他国からユダヤ系移民が増加していて、イスラエル領土では彼らに住まわせる土地が確保できないといった理由がありました。

他国からイスラエルへ1960年代には42万人以上、1970年代にも26万人以上のユダヤ系移民が移住しており、イスラエルも彼らに住まいを分けるために国連の要請も無視してパレスチナに入植を着手に踏み切りました。

パレスチナ人は、ある日、突然、土地や家を奪われ、住んでいた場所を追い立てられる。そんな仕打ちを受けて、兵士だけでなく民間人も必死に抵抗するようになり、暴動が各地で加熱していくのです。1987年12月、イスラエルの車両がガザ地区で起こした人身事故をきっかけに、全占領地を巻き込むパレスチナの民間人による抵抗運動が沸き起こりました。この闘争は、民間人による抵抗ということもあって「蜂起」を意味するインティファーダという言葉で世界に報じられることになりました

民間人の抵抗によりパレスチナ国家が誕生する

インティファーダパレスチナの民間人による自発的な抵抗運動であり、チュニジアに拠点を移していたPLOは後からそれを追いかける形で抵抗運動に参加することになりました

PLOが参加したことで、PLOイスラエルとの共存路線を打ち出し、1988年にヨルダン川西岸地区を領土とするパレスチナ国家の独立を宣言しました。


アジア・アフリカ諸国を中心にパレスチナ独立を承認する声明が次々と出され、PLOにとって良い方向に進んでいるかのように思われました。しかし、1990年8月に湾岸危機が起こり、翌年1月に湾岸戦争が始まると流れが変わりました。

湾岸戦争は、イラクのサダム・フサイン大統領が突如、クウェートに侵攻して同国を占領。国連は、撤退を要求しましたが、フサインはこれを無視し、アラブ民族主義に則ったスローガンを乱発しました。

その中にはイスラエルパレスチナ占領地区から撤退するならイラククウェートから撤退するという発言があったため、多くのパレスチナ人は歓喜して、サダム支持を叫びました。結局、共存路線を打ち出していたPLO世論に傾き、もサダム政権支持に表明したが、これが大きな失敗となります。


イラクはアメリカをはじめとする多国籍軍にあっさりと敗北、クウェートから撤退することになります。同時にパレスチナは、サダム・フサインを支持してしまったツケを支払わされる羽目になりました。近隣国等から受けていた援助が止められ、出稼ぎに出ていたパレスチナ人はことごとく解雇され、パレスチナへの送金が途絶えるという事態になり、深刻な経済危機に見舞われます。

現在も続く抗争、和平への希望は残っているのか

パレスチナ国内経済の困窮化が進みましたが、湾岸戦争の影響は悪いものばかりではありませんでした。湾岸戦争が起こってしまっため、アメリカがようやく中東の和平の必要性を認識しました。そして1993年9月、アメリカの強い圧力とノルウェー政府の仲介によって、パレスチナ暫定自治の開始を認める宣言であるオロス合意が結ばれます。


オロス合意では、イェルサレムはどの国に帰属させるのか?難民の帰還はどうするのか?ユダヤ人が入植した土地はどうするのか?国境はどのようにして決めるのか?重要な問題はすべて先送りにされた感じがありますが、それでも紛争が絶えなかった地域についに和平が訪れるということで、PLOイスラエルのともに歓迎する声の方が大きかったと思います。

それでも、少数派ですが、パレスチナ側のハマスイスラエル側の「“神から約束された地”に関して交渉の余地などない」とするユダヤ今日の超正統派のなど和平に関して反対の意を唱える過激派の集団が残りました。


PLOパレスチナ両者の歩み寄りは過激派によるテロ行為により思うように進みませんでした。パレスチナ自治政府によって暫定自治が開始される前には双方でテロの応酬がなされ、自治開始後の1995年11月には、和平路線を推し進めていたイスラエルのラビン首相が極右のユダヤ人青年によって暗殺される事件も起こってしまったのです。

それでもPLOイスラエル間で和平プロセスの継続への期待がありましたが、それははかない夢に終わります。この時期でもユダヤ人の入植活動が続いていたことから、パレスチナ人の憤りは爆発寸前となっていたいのです。


イスラエル人にしてみれば、冷戦が終結してからというものの、ロシアなどの旧ソ連諸国からの年間約10万人もの移民がイスラエルに入国し、彼らに住まいと仕事を与えるという課題が依然として解決されていなかったのです。


結局、第二次インティファーダが起こってしまい、オロス合意の破綻することは、誰の目にも明らかでした。

また、パレスチナ人の内部にも動きがありました。パレスチナ暫定自治が開始されてからというもの、パレスチナ国内では、ヨルダン川西岸地区の自治政府を握るファタハとカザ地区を支配していたハマスによる抗争が頻繁に起こるようになりました。


そして、2004年11月、ファタハの指導者でパレスチナ人のカリスマになっていたアラファトが病死すると、パレスチナ人の心はファハタから急速に離れていってしまいました。

そのファハタに代わり、人心を獲得したのがハマスでした。ハマスオスロ合意に反対を表明したグループであり、地道な医療・教育・福祉活動を通じて人々の心を掴んでいきました。さらに、武装路線に転じてからはパレスチナ全土の解放を掲げ、イスラエルとの対決姿勢を明らかにしました。

イスラエル軍による度重なる攻撃、入植活動は現在も続けられていますが、現在もハマスガザ地区を実効支配下に置いて抵抗をしており、現在まで白旗を上げることなく抵抗を続けています。

アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図 (講談社現代新書)

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