先進国に翻弄されるユダヤ民族とアラブ民族の度重なる中東戦争

Temple Mount, Jerusalem, Israel
エルサレム宮殿

ユダヤ人にとって待望のユダヤ民族による国家が誕生したが・・・

ヨーロッパ諸国では、国民からユダヤ人が迫害・差別の対象だったとしても、国にとっては人口も多く、さらに金融業等で成功し裕福な人も多く、立派な税金の財源でした。そのため、ヨーロッパ諸国からユダヤ人が自国から出ていくシオニズム運動は決して良い話だけではありませんでした。


そして、ユダヤ人の迫害・差別の問題は彼らがヨーロッパから外に出たところで、ユダヤ人に対する差別の根本が解決できたわけではありません。


そんな状況下でイスラエルが建国されたのです。イスラエル建国の当時の情勢について書いていきます。

前回の記事にも書きましたが、ユダヤ人の反英感情が強くなり、イギリスに対してテロが相次いぎました。イギリスはこのユダヤ人によるテロ行為に関して、自国だけでは解決できないと早々に諦めて、新たに設立された国際連合に問題の解決を丸投げしました。(これもひどい対応ですね・・・)


その結果、国連総会で採決されたのは、アラブ人が支配していましたが元々ユダヤ人が多く住んでいたパレスチナ地方をアラブ人国家、ユダヤ人国家、そして国連信託地域の3つに分割する案でした。この時点におけるパレスチナ地方の人口比は、アラブ人約68%に対し、ユダヤ人は31%。


そして、なぜか国際連盟パレスチナ地方の土地の分割の割合について、明らかにアラブ人が反発し、新しい火種になりそうな案を推進していきました。


それは少数派だったユダヤ人のためにパレスチナ地方の56%を与えるという内容でした。当然、この案にはパレスチナに住んでいたアラブ人はもちろん、周辺アラブ諸国も納得できるものではなく、反対運動をおこしました。


しかし、ユダヤ人たちもアラブ人の反発をよそに、アメリカ・ソ連の2強国の支援を受けて着々と建国の準備を進め、1948年5月に独立宣言を発令し、イスラエル国を成立させます。


もう予想はついていたかもしれませんが、イスラエル独立宣言は、次の新しい戦争のはじまりを告げる号令となってしまいました。独立宣言の翌日未明、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノンイラクからアラブ諸国軍がパレスチナ地方に押し寄せ、イスラエルに侵攻を開始しました。これが第一次中東戦争の始まりです。


しかし、イスラエルもしっかりと戦争に備えられており、アメリカ・ソ連の支援で当時の最先端の装備をもってアラブ諸国軍に応戦しました。イスラエルは、2万3000人のアラブ諸国軍を超える4万人超の兵士を導入します。さらに、アラブ諸国軍は近代戦装備に慣れていなかったため、イスラエルアラブ諸国を圧倒していきました。


その結果、1949年に第一次中東戦争の停戦協定が結ばれたときには、パレスチナ全体の77%がイスラエル占領下に置かれることになります。そして、第一次中東戦争によって、100万人を超えるパレスチナ人(パレスチナ地方に元々住んでいたアラブ人)が故郷を追われ、難民となってしまいます。

エジプト劣勢がアラブ諸国を引っ張る

中東のアラブ諸国も実は第二次世界大戦前から大戦中にかけて、イギリスやフランスなどヨーロッパ諸国の植民地支配から独立を果たした新興国がほとんどでした。ヨーロッパ諸国に植民地からされる以前はオスマン帝国の支配をうけるなど、長い間、他民族の支配下にいました。


そのため、第2次世界大戦後のアラブ人たちにも、ユダヤ人と同様にアラブ民族主義を掲げて、民族の自立を目指している最中でした。


第一次中東戦争において、アラブ諸国の主力国としてアラブ諸国軍をまとめていたのがエジプト。エジプトは第1次世界大戦中にいち早くイギリスから独立を達成し、さらに1952年に革命が起こり国王を追放し、共和制となります。


そして、革命から4年後に革命軍のリーダーだったナセルが大統領に就き、ナセルはアラブ民族主義の推進者として、エジプトだけではなく、アラブ諸国全体を引っ張っていました。


ナセルの代表的な功績として、1956年7月、イギリスとフランスが利権を握っていたスエズ運河の国有化宣言が挙げられます。これに起こったイギリスとフランスは、エジプトと対立するイスラエルを誘って、同年10月、エジプトへの攻撃を開始しました。(イギリスもフランスも遠いところからいちいちいらんことをする・・・。)これが第二次中東戦争の始まりです。


第二次中東戦争では、イギリス・フランスの侵攻に対してエジプトが劣勢に立たされていました。しかし、国際世論はエジプトに味方します。最大の産油国であったサウジアラビアがエジプトを支援することに加え、ソ連が軍事介入の構えを見せたことから、アメリカでさえ、イギリス・フランス・イスラエルの3か国を非難する側に回りました。



厳しい国際敵非難にさらされた3カ国は国連決議を受け入れ、軍をエジプトから撤退させることになります。


第二次中東戦争の結果、スエズ運河の国有化を勝ち取ったナセルの威信とアラブ民族主義は著しく高まります。難民のなかからも自分たちの故郷を奪われたパレスチナ地方の解放闘争に身を投じる者が多く現れ、1964年、ナセルはそれらを組織化して、パレスチナ解放機構(PLO)を設立させます。実施的なパレスチナ政府であり、PLOは反イスラエル武装組織の統括機関の基礎となっていきます。

度重なる戦争で経済が先に崩壊してしまうエジプト

このころのアラブ民族主義派は精神論で過激な行為が多い一方で、アラブ諸国の経済や社会の発展と言う点では成果がなかなか出ていません。

アラブ民族主義の勢いの衰退、そのメッキが1967年6月に起きた第三次中東戦争で剥がれていくことになりました。第三次中東戦争は、エジプト・シリア・ヨルダンを中心としたアラブ諸国軍の惨敗に終わり、シナイ半島ガザ地区、東エルサレムを含むヨルダン川西岸、ゴラン高原イスラエルの占領下に置かれました。しかも、ガザ地区ヨルダン川西岸から新たに40万人もの難民が発生します。


シナイ半島を奪われたエジプトとゴラン高原を奪われたシリアは密かに戦争の準備を進め、南北から挟み撃ちで同時に侵攻を開始する計画していました。


そうして、1973年10月に第四次中東戦争がはじまります。挟み撃ちの奇襲の成果が出て、戦争の序盤戦ではエジプト・シリア軍側が攻勢でした。しかし、結局は最後は逆転され、アラブ側は開戦前よりもさらに軍を後退させて、領土を減らされる結果になりました。


第四次戦争におけるアラブ諸国側の敗因は、中東戦争で常にアラブ側の主力を務めていたエジプトがついに度重なる戦争で資金が枯渇し、エジプト経済が危機的状況に陥ってしまったのです。エジプトにもついに限界がきた、といったところです。


エジプトは経済危機を回避しなければならず、アメリカに援助を受けるためナセルの後を継いだサダト大統領のもとで、イスラエルとの関係改善を模索します。そうして、アメリカの仲介を受けて、エジプト・イスラエル平和条約が締結され、エジプトはイスラエルと"単独"和平を結ぶことになりました。ここも単独っていうところが後々のポイントですよね。


これによってエジプトはアラブ諸国の中で孤立することになってしまいますが、エジプトだけが元々の領土であったシナイ半島の返還とアメリカの経済援助を受け、現在のように近代化を進められるきっかけを掴んだ格好になりました。

戦争と革命の世界史 (だいわ文庫)

戦争と革命の世界史 (だいわ文庫)

※関連記事
なぜパレスチナ土地へユダヤ民族が移住することになったのかは下の記事で書きました。
rekiblo.hatenablog.com