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強い中国を取り戻すために、戦後の中国復興のダイジェスト

Chiang Kai-Shek Memorial

強い中国を取り戻すために・・・毛沢東蒋介石二人のリーダー

日本が英米に宣戦布告したことから、蒋介石の率いる中国は連合国の一員として第二次世界大戦を戦うことになりました。そして、大戦が終結すると、中国は勝利した連合国の主要国という立場から、新たに発足した国際連合の安保保障理事会で常任理事国の席を占めることになります。


アヘン戦争以降、中国が味わってきた屈辱を考えれば国際社会での飛躍的な地位上昇と成りましたが、中国国内に目を向ければかなり深刻な状況になっていました。国民党と共産党の軋轢が表面化し始めていて、両党の争いの行方が中国の今後を大きく左右する状況となったのです。そして、1946年7月、とうとう全面的な内戦が始まります。


国民党はアメリカの全面的な支援を受けていましたが、1947年6月末から共産党の攻勢をこうむるようになります。そして、国民党は敗北を重ね、蒋介石は国民党とともに台湾に逃れることになりました。1949年10月1日、共産党は北京を首都とする中華人民共和国の設立を宣言し、毛沢東が主席に、周恩来が首相に就任しました。

一方、アメリカは蒋介石への支援を続け、中間人民共和国を承認しなかったことから、台湾を支配するだけの中華民国が中国代表として国連議席を保ち続けることになりました。

朝鮮半島を舞台に争う中国とアメリカ

1950年に朝鮮半島でアメリカが支援する韓国とソ連が支援する北朝鮮の間で朝鮮戦争が起きました。中国に続いて朝鮮半島まで共産化しては困ると焦ったアメリカは、国連軍の主力として朝鮮戦争に参加します。

一方、中国は北朝鮮軍が中国国境近くまで追い詰められているのを見て、強い危機感に襲われます。朝鮮半島全域がアメリカ陣営に入れば、アメリカ軍と直接対峙することになってしまうからです。

それはあまりにも危険との判断から、人民義勇軍という名目で百万人近い軍隊を送り、朝鮮戦争に参戦しました。

朝鮮戦争は1953年に停戦協定が結ばれ、南北分断のまま現在に至っています。

評価が分かれる毛沢東の事情

中国とソ連の関係は、フルシチョフによるスターリン批判をきっかけに悪化していきます。さらに、1969年の珍宝島(ダマンスキー島)事件によって、中ソの対立は領土問題に発展しました。

ソ連に対抗心を燃やす毛沢東は、1958年、工業化と農業の集団化による急進的な社会主義化を強行します。しかし、大躍進の結果はひどいもので、報告では急速な経済成長を続けているはずでしたが、現実には労働意欲の低下や本業の放棄、非効率、浪費、無責任と言ったマイナスの風潮が広がり、天候不順も重なって、1500万以上の餓死者を出す惨状を招いていました。毛沢東は責任をとり、国家主席を辞任することになります。

早急に経済の立て直しを図る必要があると、共産党幹部の間で危機感が共有されたことから、劉少奇と鄧小平が中心となって社会主義政策を緩める経済調整が推進されました。

毛沢東としては、この二人の政策は面白くありません。資本主義の道を歩むことは革命に対する反逆行為だと判断しました。結局、自分が先頭に立って、人々を正しい道に導く必要があるとして、毛沢東は自分の理想を絶対的な正義と確信して、共産党幹部の子弟たちを先導して権力奪取のための闘争を開始しました。

これがプロレタリア文化革命(文革)の始まりです。1966年に始まった文革は、毛沢東という後ろ盾を得た若者たちによる過激な民衆運動となり、劉少奇を失脚させ、数百万人という犠牲者を出して中国社会を混乱させました。

毛沢東自身は政権奪還と言う目的を果たし、1971年には台湾の国民党政府に代わって国連での代表権を回復。さらに翌年にはアメリカのニクソン大統領の訪中、日本との国交正常化を果たすなど、国際社会への復帰も果たしました。

その一方で、文化大革命が大きな損害をもたらしたことから、中国では経済の再建が急務となりました。そんななか、1976年1月には周恩来が、同年9月には毛沢東が相次いでなくなります。

「屈辱の100年」をバネに中国経済の急成長

毛沢東の死を境に、中国は改革・開放路線に転換していきます。陣頭指揮をとったのは劉少奇とともに経済調整を推進した経験のある鄧小平でした。

最終的に国民すべてが豊かになればよいので、維持的に貧富の差が生じてももんだヒアはない、このような理論のもと、鄧小平は海外資本の導入や生産請負制の導入などを柱とする経済の自由化を推し進めました。それは、社会全体の自由化要求へとつながり、ソ連ペレストロイカが開始されたことも重なって、政治的自由を求める声が高まりました。

共産党一党独裁を堅持したい鄧小平は1989年、民主化を求めて天安門広場に集まった学生たちを武力によって弾圧しました。これは天安門事件と呼ばれ、中国は国際的な孤立を招くことになります。

鄧小平は、国内の不満と国際社会の懸念を解消させるため、民主活動家の釈放や経済のさらなる自由化を推し進めました。同時に中華ナショナリズムの高揚にも努め、1992年には領海法を採択。現在の中国政府は了解の接する日本や東南アジア諸国に対し、状況に応じて尖閣諸島南沙諸島に対する領有権を主張するようになっています。

さらに、アヘン戦争などで奪われた香港とマカオが返還される頃には、急速な経済成長が世界の注目を集めていました。一方、国内では声高に愛国心が叫ばれるようになり、黄帝炎帝んだおの民族始祖、岳飛・楊家将に代表される愛国英雄が持ち上げられ、テレビでは抗日ドラマが増え始めます。

これらの根底には、アヘン戦争が中国建国までは「屈辱の100年」とする共産党歴史観に加え、国民の間で高まる共産党政治への不満のエネルギーを愛国心に向けさせることで、共産党による一党独裁体制を維持しようという意図が働いていたのではないかと、推測してしましまいます。

蒋介石の外交戦略と日中戦争

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