読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

中国の歴史は漢民族と異民族の抗争の歴史

世界史 世界史-中国史 中国 日本

Chine 中国 - Xian 西安

初めて中国を統一した始皇帝

中国は早くから文明が発達した地域の1つで、皆さんもご存知の通り、中国文明は世界4大文明の1つに数えられています。中国大陸を流れる2つの大河である黄河と長江の流域で稲作が前6000年ごろから発達しました。


土地柄と気候のために黄河流域で雑穀の栽培、長江流域で稲作が開始されました。ほぼ同じ時期に黄河と長江で農業が始まりましたが、自然環境の違いから開発が早く進んだのは、黄河流域でした。そこに人口の増加、文字の発明、都市や王朝の成立などという出来事が重なって、黄河が中国の中心地として認識されるようになります。


具体的には、夏(カ)、殷(イン)、周(シュウ)という古代中国の王朝が興亡し、周の支配力が弱まると有力な諸侯が次々に周の統制から離れていき、春秋戦国時代と呼ばれる乱世を迎えます。この乱世を収め、史上初めて中国を統一したのが秦の始皇帝です。

秦の始皇帝の活躍を描いた大人気漫画が「キングダム」ですね。

漢民族のプライド「中原」

黄河流域を中心とする歴史観を表した言葉に「中原」という言葉があります。中原とは、夏・殷・周がそれぞれ都を置いたとされる地域のことで、黄河中流域、現在の河南省北部から陝西省中心部一帯が当てはまります。


秦が中国の統一後20年足らずという短命に終わってしまい、漢が中国を統一しますが、同王朝が約4世紀に亘って支配を続けたことから、中原の住人を指して「漢民族」や「漢人」と呼ぶようになりました。


漢民族は中原を「夏」「華夏」「中国」などとも呼びますが、自分たちが世界の中心にいるという自負を持つようになります。


さらに、中原から見て北にいる異民族を北狄、東にいるものを東夷、西にいるものを西戎、南にいるものを南蛮と呼んで、すべて未開な野蛮人として蔑視しています。これが中華思想(華意思想)と呼ばれるものです。


中華思想のように、自民族を世界の中心に置く考え方は世界各地にあり、特別なことではありません。ただし、中国の場合は、実際に周辺民族に対して圧倒的な文化や経済力、政治力を持っていたことから、自分たちが世界の中心であるとい中華思想が事実あるいは常識として定着していきました。


しかし、現在に至るまでの長い中国の歴史を見渡してみると、純粋な漢民族王朝と呼べるものはそれほど多くはありません。例えば、モンゴル民族による元や満州民族による清など、漢民族が異民族に征服された時代はいくらでもあります。


ただし、それらの王朝も基本的には漢民族が作り上げた支配制度や社会経済の仕組み、文字などを使用することがほとんどでした。こうした事情が、漢民族の強固なプライドの長年に渡って形成されていきました。


また、漢民族はいつも異民族と緊張関係・敵対関係にあり、例えば、秦から漢、三国時代と続く時代においては、北方の騎馬民族を圧倒する時期もあれば、その逆もあり、やがて北方の民族の中から万里の長城を越えて移住し、中国文明に溶け込んでいく者も現れています。


三国時代を経て中国を統一したのは晋ですが、その支配体制は長くは続かず、五胡十六国時代と呼ばれる国家乱立の時代となります。五胡とは、匈奴鮮卑・羯・氐・羌という北方・西方の遊牧騎馬民族のことで、華北では彼らの国家が興亡を繰り返しました。


そこから、南北朝時代を経て、581年に隋によって再び中国が統一され、さらに618年に成立する唐へと続きます。南北朝時代華北を統治する北朝鮮卑人を支配層とする王朝が続き、隋も唐も北朝の系統から成立しました。


隋も唐も純粋な漢民族王朝ではありませんが、これまでの時代を通じて漢民族による農耕文化と北方民族による遊牧文化が壮大にミックスされたことで、秦や漢の時代よりもバージョンアップした中華王朝となっています。

血筋統治とクーデターを繰り返す中華王朝

このように中国の皇帝として君臨するのに、漢民族であることは絶対条件ではありません。初代皇帝はかなりの実力者であって、自力で皇帝の地位を掴み取り、2代目以降は血筋で君臨します。そして、その力が弱まり、取って代わる実力者が現れれば王朝が交代していきます。


それを天命と捉えるのが中国史に脈々と流れる考え方があります。


さて、中国と周辺国はどのような関係を築いたのでしょうか。


強大な影響力を持つ中華王朝に対し、周辺諸国は貢物を持参して挨拶に出向きます。その答礼として、皇帝は自らの権威を示すために数倍の価値ある品々を下げ渡していきました。


中華王朝と周辺国の間では、このような朝貢貿易と呼ばれる外交関係が結ばれていきました。


広い東アジア、皇帝としても直接支配できるエリアに限界があることから、朝貢してきた国に対して何かしらの称号を与え、自分の臣下として彼らに土地の支配を認めることで権威を保った方が好都合となります。こうして中華王朝を中心とした、冊封体制と呼ばれる支配序列が築かれていきました。


日本では、福岡の志賀島で出土した金印で知られる奴国の王、三国時代の魏から「親魏倭王」の称号を贈られた卑弥呼、遣隋使、遣唐使、さらには足利義満によって始められた日明貿易などが朝貢貿易の一つと考えられますね。