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フランス革命、国民を団結させた皇帝ナポレオンの活躍

フランス 世界史 世界史-西洋史 中世

Notre-Dame Basilica
ノートルダム大聖堂、ナポレオンが皇帝に戴冠を受けた場所

身分社会の中で民衆たちが立ち上がる

18世紀末に起きたフランス革命と、19世紀初頭に行われたナポレオン戦争と呼ばれる一2回は、現在につながる「国民」と「国民国家」という概念を生み出し、広めたという点で、ヨーロッパの歴史にとって大きな転換点となりました。


それまでのヨーロッパ社会は、封建的主従関係と身分制度によって成り立っていました。例えば、フランスでは絶対王政を行う国王を頂点に
聖職者を第一身分、貴族を第二身分、平民を第三身分とする身分制度をとっていました。

この頃のフランスは第二次百年戦争で劣勢に立ち続け、豪華な宮廷生活による浪費も続いた頃から、国家財政が危機的状況となりました。

フランスの税負担は、総人口の95%を占める平民のみに課せられていたが、それだけでは財政赤字は補なくなりました。そこで、ルイ16世は、第一身分・第二身分の人々にも税を課すための改革に着手します。

免税特権を奪われたくない第一身分・第二身分の人々は当然反発しますがら一方で不公平な税制度に不満を募らせていた第三身分の人たちも黙っていません。

国王や特権階級に政治を任せておけないと考えた第三身分の代表者は、国民議会という自分たちだけの議会を作り、国民の権利を保障するための憲法制定を目標に活動を開始しました。


これに平民出身の聖職者や自由民主貴族など、特権階級にいた人も加わったことで、ルイ16世は渋々国会議会を認め、同時に軍隊を使って議会に圧力をかけようとしました。これがフランス革命のきっかけになります。

1789年7月14にち、ルイ16世の動きを知ったパリ市民が国会議会を守るためのパスティーユ牢獄を襲撃しました。目的は国王軍に抵抗するための武器を手に入れることでした。

革命の混乱が1人の英雄を生み出す

革命派は早々に「封建的特権の廃止宣言」と「人権宣言」を打ち出します。

「封建的特権の廃止宣言」は領主による束縛から有償で自由になれるとするもの。「人権宣言」は『人間及び市民の権利の宣言』の略称で、国民主権、思想・言論・行動の自由、個人の所有権の保障などを認める啓蒙思想から生まれた、『人間は産まれながらに自由であり、権利において平等である』という考え方です。


自由・平等・友愛というスローガンを掲げ、身分社会の打破と市民の政治参加を目指しました。


こうした革命は当初、自由主義貴族によって主導され、国王の地位も保たれたので、イギリスのような立憲君主制へ移行する可能性もありました。革命軍にとって、倒すべき敵は身分制度であって、国王そのものではないと考えられてきたからです。


しかし、共和政治は理想通りには進みません。派閥争いや強権的な政治が行われたことで、不安定な政局が続いたのです。さらきオーストリアなどの周辺諸国との対立が激しくなり、ついにはオーストリア軍やプロイセン軍との戦争に突入しました。


一方、国王は国外逃亡未遂事件「ヴァレンヌ逃亡事件」で信用が失墜し、八月十日事件によって王権が停止されます。その間、王家は一家で幽閉されます。


そのあと、1792年9月、国民公会という議会が成立し、王政の廃止と共和制樹立が宣言されると、ルイ16世の処刑が決定されました。王宮の戸棚などから、国王の裏切りを証明する多数の秘密文書が見つかったためです。


ルイ16世の処刑に衝撃を受けた周辺諸国は、対仏大同盟と呼ばれる軍事同盟を結びます。当時、ほとんどの国は皇帝や王を戴いており、自国で市民革命が起こるのを恐れ、震源地であるフランス革命を潰そうとしたのです。


こうしてフランスは国家存続の危機に立たされます。戦争に敗北して、絶対王政と封建身分制度が復活するのは何としても避けたい、そうした思いを共有した国民からなるフランス軍は高い士気を持ち、他国を圧倒するチカラを発揮するようになりました。やがて革命軍人としてらフランス国民の支持を得たのがナポレオンです。


1796年、ナポレオンはイタリア方面軍司令官に抜擢されると、マレンゴの戦いでイタリア方面から侵攻してきたオーストリア軍を打ち破ります。


大国のオーストリアを破ったナポレオンは一躍英雄として認められ、軍事面だけではなく、政治面でも実験を握るようになります。


そして、1804年、皇帝に即位し、ナポレオン1世として第一帝政を開始しました。ナポレオンは対仏同盟に対し、ただ防御に回るのでなく、積極攻勢に出てヨーロッパの制覇に乗り出していきます。


トラファルガーの海戦でこそ、ネルソン提督の率いるイギリス軍に敗れましたがらアウステルリッツの戦いでは対仏同盟の主力を担っていたオーストリアプロイセン・ロシア相手に、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン相手に勝利を収め、ヨーロッパ大陸の覇権を握りました。

革命を守るために団結したフランス国民

フランス軍の根源として、士気の高さかま挙げられます。従来の封建的身分制度のヨーロッパ社会で兵士として戦場に立っていたのはら金で雇われた傭兵か無理やり徴兵された農民でした。彼らにとっては報酬や自分の身の安全の方が大事であり、戦争の勝敗など二の次でしたりこれでは士気が上がるはずもありません。


一方、革命後のフランスはそれまで身分社会のなかで生きてきた人々を国民という新たな枠組みでひとまとめにしましたり


こうした国民によって構成された国を国民国家と呼びます。


フランス革命の目的はフランス国民の自由や平等、財産の権利を獲得することにあります。周辺国家によって革命が潰されてしまえばら元の封建的身分制度に後戻りしてしまいます。


つまり、フランス国民かまフランスという国民国家のために戦うことと革命を守ることはイコールなのです。ようやく手に入れた自由や人権を守る、封建領主から手に入れた自分の農地を守るという思いのもと、フランス国民は固く団結しました。このような高い士気をほこる国民軍が主力を務めたことで、フランス軍は無類の強さを発揮しました。

ドイツ国民に告ぐ、プロイセンな軍事的成長を果たす

一方、ナポレオン軍に完敗したプロイセンは、雪辱の念から大改革に乗り出していました。特に軍事においては、フランス軍を参考に傭兵制からの脱却して国民軍を作り始めました。


こうした政治改革が行われる一方で、強い危機感から国民意識の高揚を訴える知識人も現れるようになりました。その代表格がフィヒテで、『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行い、ドイツ人の国民意識を高めました。


そもそもドイツの各領国家では封建的身分制度が維持され、統一国家と呼べるものが存在したことがありません。そこでドイツも領邦国家の枠を超えた『ドイツ』という国民としてまとまり、フランスと同じようにドイツ人という国民としてまとまるべきだという考えが生まれました。


ドイツ統一こそ少し先の話になりますが、政治革命と国民意識の高揚によってプロイセンの国力は瞬く間に充実していきます。


そして、ライプツィヒの戦いでロシアやオーストリアと連合し、パリを占領。連合軍に降伏したナポレオンは1814年、フランス皇帝から退けられ、エルバ島に島流しになりました。


しかし、ナポレオンは簡単に諦めませんてました。協力者を得てエルバ島から脱出すると、パリに戻って再び皇帝となりました。


そして復権を目指し、イギリス・プロイセンの連合軍と対決。ワーテルローの戦いです。しかし、ナポレオンは再び敗れてしまいます。結局、皇帝の地位を追われたナポレオンは、大西洋の孤島セントヘレナ島に流されて1821年になくなります。


ナポレオンが皇帝を追われた後、フランスは政変が相次ぎました。


ブルボン朝が復活し、オルレアン朝に変わり、再び共和政になり、さらにナポレオン一世の甥ルイ=ナポレオンかま大統領に就任しました。


1852年には国民投票によって皇帝に即位したルイ=ナポレオンは、ナポレオン三世となりました。ナポレオン三世は、国内産業の育成に力を入れて、パリ万国博覧会を成功させるなど、フランスの近代化に大きく貢献しています。

図説 ナポレオン (ふくろうの本)

図説 ナポレオン (ふくろうの本)