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西欧諸国に後れをとった中世ロシアとドイツの猛追

ロシア ドイツ 世界史 世界史-西洋史 中世

モスクワ大国国がモンゴル人国家からの独立!

Red Square in Moscow
赤の広場モスクワ大公国の国民行事が行われていた

これまで西洋史、特に中世のヨーロッパについて書いてきていました。中世ヨーロッパでは、大西洋側の西ヨーロッパ中心に展開していきます。


中世では、ロシアとドイツはまだ小国の一つ。イギリスが大繁栄時代を謳歌する中で、ロシアとドイツが追い付き、ヨーロッパの覇権争いにロシアとドイツが新なきプレイヤーとして参入してきました。まずはロシアとドイツの誕生から見ていきましょう。


ロシアの歴史は1,480年にモンゴル人国家にあるキプチャク=ハンからのモスクワ大公国として独立を果たしたことから始まります。その後、様々な君主が君臨してきましたが、まだまだ小国の一つで、西ヨーロッパの列強と比較してもその差は歴然としていました。

そんなロシアを根本から改革しようとしたのが、1982年に即位したピョートル1世です。ピョートル1世はモスクワ公国の西洋化を目指し、大胆な改革を推し進めます。さらに、スウェーデンとの北方戦争に勝利して領土を拡大、バルト海沿岸部を獲得していきます。そして、ネヴァ川河口に新都サンクトペテルベルクを建設しました。


モスクワ公国・ロシアでは皇帝をツァーリと呼び、皇帝による専制政治をツァーリズムと呼びます。すでにイギリスで市民革命が起こって久しく、フランスではブルボン朝による絶対王政の下できらびやかな宮廷文化が花開いていた時期に、ようやくロシアではツァーリズムが始まりました。

ただひたすら凍らぬ港を求めて

西ヨーロッパの列強は海外の発展途上国を植民地化し、貿易する重商主義政策に基づく海外進出によって成長してきました。ロシアも他国と同じように外洋に出て貿易をしないと大きな国になれない、と常々考えていました。

しかし、元々内陸国だったロシアには港がなく、領土を拡大して港持ったとしても、北の海では冬になってしまえば凍ってしまい、船が出せないという地理上の弱点がありました。


そこで、ロシアでは18世紀中頃から、不凍港を求める南下政策が進められます。まず、具体的なターゲットはモスクワから直線距離で短い黒海。エカチェリーナ2世がオスマン帝国からクリミア半島を奪ったことで1つの宿願を達成します。

しかし、黒海から地中海に出るには、オスマン帝国の支配下にあるボスフォラス海峡とダーダネルス海峡を通過する必要がありました。そのため、ロシアは両海峡を支配下に置くオスマン帝国と緊張関係を深めて行くことになりました。

続く重要なツァーリは、アレクサンドル1世。彼はナポレオンのモスクワ遠征を失敗に終わらせたことで、ロシアをヨーロッパ世界におけるキープレーヤーへと押し上げました。


しかし、その後、ロシアは大きな挫折を味わいます。クリミア戦争オスマン帝国とその同盟国であるイギリス、フランス、イタリアに次々に敗北してしまいます。


ロシアは広大な領土と陸軍兵力を保持していたが、その国力は当時としては時代遅れであり、工業化によって近代的な軍隊となった英仏相手にはとても歯が立たなかったのです。


ロシアが強国となるためには、さらなる大改革が必要になります。これを推進したのはアレクサンドル2世で、農奴解放令をはじめ自由主義会改革を実効しました。保守派貴族の抵抗や農民反乱に悩まされながらも、改革は一定の成果を挙げていきます。

鉄と血で、軍事国家として成長するドイツ

Hohenzollern Castle_0543
プロイセンの王家が住んでいたホーエンツォレルン城

世界各地で覇権争いを繰り広げる英仏に比べ、ドイツもロシア同様完全に出遅れていました。そもそもドイツという国が成立しておらず、ドイツの地域に領邦国家が乱立して、イギリスやフランスのような中央集権化がんでいませんでした。


ドイツの領邦国家とは、戦国時代における日本のように戦国大名が治めていた国の集合国家です。言語や歴史、文化という共通項によって漠然として「ドイツ」という一体感を持っていたと思いますが、これまで国として統一されたことはありませんでした。


そんなドイツの人々に国家の形成する変革を意識させた事件がフランス革命ナポレオン戦争です。領邦国家の一部オーストリアプロイセンといった強国がナポレオン率いるフランス軍に敗北を喫したことで、フランスの強さの原動力である国民国家という概念が注目され始めたのです。


国民国家とは、「フランス人」や「イギリス人」などのように共通の言葉や宗教、生活習慣などでまとまった1つの民族、つまり「国民」によって形成された国家のことです。


フランス革命によって市民の力に目覚めた当時のフランス軍は、兵士1人ひとりが「自分はフランス人だ」という国民意識が強く、それが高い士気につながって無類の強さを誇ったと言われています。


このようなフランス軍の強さを目の当たりにして、ヨーロッパの人々は国民国家の持つ力を認めざるを得なくなります。プロイセンをはじめとするドイツの領邦国家の中でも、ドイツ民族によって統一された国民国家を望む声が広まりました。英仏に負けない経済の発展のためにも、英仏に負けないドイツ経済の発展には、何よりも統一が必要になりました。


しかし、ドイツ統一には、いくつかの問題が立ちはだかっていました。

大きな問題は2つ。どこまでドイツを統一すればよいのか?プロイセンオーストリアのどちらがドイツのリーダーになるのか?


オーストリアまで含めて統一する案を大ドイツ主義、オーストリアを排除して統一する案は小ドイツ主義と呼ばれていましたが、最終的にはプロイセンオーストリアの直接対決に選択を任せることになります。


そうして迎えた直接対決は、普墺戦争で勝利を収めたのはプロイセンでした。これによって、ドイツ統一構想からオーストリアは外されることになります。


こうしたプロイセン躍進の立役者は、宰相のビスマルクです。


プロイセンでは農奴解放と土地売買の自由化が進められ、ユンカー(農業経営を行う地主貴族)が台頭していました。ビスマルクは、このユンカー出身です。


ビスマルクは、国内統治をさらに安定させ、国力を高めるために鉄血政策を掲げました。鉄(兵器)と血(兵士)、つまり、軍事力を背景にプロイセンを成長させ、オーストリアを負かすまでになったのです。

普墺戦争後、プロイセンがフランスと対立すると、普仏戦争が勃発。ここでも勝利したプロイセンはパリにまで進軍し、1871年1月、ヴェルサイユ宮殿においてヴィルヘルム1世の戴冠式を行いました。


これがドイツ帝国の成立です。

バルカン半島でヨーロッパ諸国の利害が交錯する

18世紀後半に入って、オスマン帝国の衰退が顕著になったことから、ロシアは再び南下政策を加速させました。

まずはオスマン帝国を内側から切り崩すために、パン=スラヴ主義を掲げて、バルカン半島で暮らす諸民族(南スラヴ人)の独立を煽りました。さらに、南スラヴ人の開放を大義名分として、オスマン帝国に宣戦し、ロシア=トルコ戦争を開始します。


ロシア=トルコ戦争ではロシアに軍配が上がりました。ロシアが勝利した後、サン=ステファノ条約が結ばれました。この条約の最大の目玉はブルガリアの独立です。


このときのブルガリアは現在のブルガリア王国とは異なり、南は地中海に面する領土持っていました。つまり、ロシアはアナトリア半島バルカン半島に半島に挟まれた2つの海峡を通らなくても、ブルガリア領内の陸地を通り抜けることで地中海に出られるようになりました。


しかし、ロシアの影響力が強くなり過ぎるのを警戒したイギリスとオーストリアがこの条約に反発したことから、両陣営の緊張が一気に高まりました。ここで、仲介役を買ってでたのが、ドイツ統一を果たしたばかりのビスマルクです。

ビスマルクは内統治に集中するため、ヨーロッパ戦火が広がるのを避けたかったのです。こうして、ベルリン条約が結ばれた結果、セルビアモンテネグロルーマニアの独立は承認されましたが、ブルガリアは小規模な自治国に留められ、ロシアの南下政策はまたしても成功しませんでした。

一方、後発でありながら、ドイツでは急速かつ比較的平穏に工業化が進められ、19世紀には技術力と生産高の両面でイギリスとフランスに続く大国へと成長することになります。