自由と平等を求めたアメリカ独立戦争とモンロー宣言

Independence Hall
※アメリカ独立記念館@フィラデルフィア

「有効なる怠慢」で自治力を高めたイギリスの北米植民地

北アメリカ大陸への植民活動で先陣を切ったのは大航海時代栄華を極めていたスペインでした。スペインはインカ帝国を滅ぼすなどペルー・メキシコなど中南米から北上していき、フロリダと北米の中西部一帯を支配下に収めました。

スペインから少し遅れて、イギリスやフランスがアメリカ東海岸から進出していきます。


その後、イギリスとフランスの対立が激しくなって、第二次百年戦争が開始されると、北アメリカでもイギリスとフランスの植民地の奪い合いで次々と戦火を交え争いを繰り返しました。


ここで、他国よりもいち早く産業革命が起こり、近代的な国家体制を築いていたイギリスが徐々にフランスに対し優勢になります。決定的な勝敗は、フレンチ=インディアン戦争でイギリスが勝利したことでこの争いは終結を迎えます。

フレンチ=インディアン戦争の終結のため、パリ条約が結ばれました。パリ条約では、最後のフランスの植民地であったルイジアナがイギリスの手に渡って、フランスのすべての北アメリカ植民地を失います。


北アメリカ大陸でのイギリスとフランスの争いは、イギリス植民地の自治力の高さが勝機を分けました。


当時、イギリスの北アメリカの植民地は13州まで拡大していましたが、イギリスは入植者に対して寛大な対応をします。イギリスに対して参政権などの権利も認めないということを条件に、入植者には納税も含めて何の義務も課さず、彼らの自治に任せたのです。いわゆる「有効なる怠慢」と呼ばれる政策をとっていました。


これにより、イギリスの北アメリカ植民地は、フランスの植民地よりも高い自治力を誇り戦争を戦います。自分たちの土地を奪われるわけにはいかないと士気もフランス側よりも断然高かったのでしょう。当然、イギリスも本国からも軍隊は送られていたようですが、軍事費はすべて植民地側で負担していた、と言われています。


しかし、イギリスもここまで何度も見てきたスペイン・オランダと同様に、度重なる戦争によって大きな負債を抱えるることになり、自治領に対しても干渉してくるようになります。イギリスは政策を変え、北アメリカの植民地への課税を決めたのです。植民地側に参政権がないことを良いことに、1764年砂糖法、1765年に軍隊宿営法と印紙法、1767年にタウンゼント法と、次々と制定されていきます。


さて、イギリスが植民地に課税することに対して、参政権はないものの植民地側もイギリス本国に代表者を送っていないため、課税に同意していない、と言う論理、いわゆる「代表なくして課税なし」をスローガンに反対運動を行います。そして、新税法を撤回させていきます。


しかし、それでも植民地から税金を取りたいイギリス政府は、何かにつけて税金を取る方法を考えます。そして、ついに1773年茶法が制定されると、植民地側の怒りは一気に爆発します。


植民地の住人がボストン港に停泊中のイギリス東インド会社の商船を襲い、積み荷(茶葉)を海中に投げ捨てると言う強硬手段(ストライキ)にうって出ました。これがボストン茶会事件です。


このボストン茶会事件が起きて北アメリカ植民地とイギリス本国の対立は深まって、1775年4月、ついにイギリス軍とマサチューセッツ民兵との武力衝突が起こります。これをきっかけとして、アメリカ独立戦争へと発展していきます。


アメリカ独立戦争が開始されて、8カ月後、1776年1月4日に、大陸会議でアメリカの独立宣言が採択されます。そこに謳われたのは、基本的人権、革命権、平等権、生命・自由・幸福追求の権利など、イギリス本国で認められていた権利章典の基本を踏襲しながら、ジョン=ロック社会契約説なども取り入れた独立宣言でした。

ヨーロッパ諸国はアメリカの独立に味方した

アメリカ独立戦争では、イギリス軍との対決に備えるため、急ピッチで植民地軍は軍隊を編成することになります。その植民地軍の総司令官に選ばれたのがのちに初代アメリカ合衆国大統領となるジョージ・ワシントンです。


ワシントン率いる植民地軍は急増の市民兵集団だったことから、精強なイギリス正規軍に対して正面衝突しても勝ち目はありません。そこで、植民地軍はイギリス軍との正面衝突を避け、奇襲攻撃を繰り返す戦術を取り健闘します。


それだけでは足りないとして、植民地軍はイギリス以外の西欧諸国片っぱしに援助を要請する働きかけも行いました。


植民地軍の要請に対して、植民地戦争でイギリスに敗れたフランスが植民地軍に軍隊を派遣します。フランスにとっては、イギリスに一矢を報いる絶好のチャンスですからね。フランスが植民地軍に味方したことで、その他スペインやオランダなどの列強も同調し、植民地軍を援助し始めます。


1781年のヨークタウンの戦いで、植民地・フランス連合軍がイギリス軍を破った事で勝敗が決まりました。アメリカがイギリスを退け、念願の完全な独立を果たします。そして、1783年9月に調印されたパリ条約において、アメリカ合衆国の独立が認められました。

覇権獲得を目指して発展の礎を築く

独立したアメリカ合衆国は、まず合衆国憲法の制定に着手しました。世襲君主制を嫌い、人民主権三権分立、連邦主義の原則のもと、市民の投票によって国家元首を選ぶ大統領制を定めました。その初代アメリカ合衆国大統領には、独立戦争の英雄ワシントンが選ばれました。


建国当初のアメリカ経済は農業が中心で、綿製品を始めとする工業製品はイギリスからの輸入に頼っていました。しかし、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こると、状況が変わります。英仏の争いにアメリカ合衆国は中立の立場で両国と貿易をしていましたが、結局、両国から批判されます。


そのため、アメリカはヨーロッパからの輸入に頼れなくれなくなります。それがアメリカの経済的自立を加速させます。

アメリカでも工業製品の国産化が必要となり、北部(デトロイトなど)では産業革命が進みます。南部では、引き続き農業中心が続きましたが、北部の工業地帯に原材料を送るニーズが増えて、それまでのサトウキビを抜いて、綿花が一番の主要作物となりました。


こうして歩を開始した新生国家アメリカ合衆国は、大西洋を挟みヨーロッパ諸国から一定の距離をとり、自国の発展に専念する方針を打ち出します。その意思表示を明確にしたものが、1823年、第5代大統領モンローが示したモンロー主義でした。


このモンロー主義は、大陸間の相互不干渉と反植民地主義の原則などを掲げたもので、アメリカ合衆国がヨーロッパのことに首を突っ込まないから、ヨーロッパもアメリカの大陸のことに干渉してくれるな、といった趣旨の宣言です。


アメリカ合衆国モンロー主義を当面の国家の基本方針とし、のちの強国への礎を築いていきます。