読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大航海時代に出遅れたイギリスがオランダから覇権を奪う大躍進

世界史 世界史-西洋史 中世 イギリス オランダ

Hatfield House - The Old Palace
※ハットウィールド・ハウス、エリザベス1世が女王に即した城

イギリスを発展させるため生涯独身、「自国との結婚」を選んだ女王

大航海時代から始まった西ヨーロッパの覇権争いに対し、スペイン・オランダといった国々対してイギリスはかなり遅れを取ってしまっていました。ここからイギリスを強国の位置に押し上げたのは、姉メアリ1世の後を継いで即位したテューダー朝のエリザベス1世です。


そのころ、スペインにはイギリスも支配下に置こうとする野心がありました。そのため、フェリペ2世は自身がエリザベス1世に結婚の申し入れをしたのです。


エリザベス1世はこのとき25歳で即位し、他にも複数の申し入れが寄せられていました。他国の王侯から選ぶか、国内の貴族から選ぶか。カトリックの夫か、プロテスタントの夫か。誰を選んだとしても、エリザベス1世にとって、争いの種になるのは目に見えて明らかでした。

そこでエリザベス1世が選択したのは、「自国との結婚」でした。誰とも結婚しない、生涯独身を貫いたのです。イギリスを強国へ導くために、結婚(政略結婚になるでしょうが・・・)よりも内政の安定を優先させるべき、と割り切ったのです。エリザベス1世の有名な言葉に「私のよき臣民、すべてが私の夫だ」と語って、処女王となります。


1568年、ネーデルラントがスペインに対して独立戦争を開始すると、エリザベス1世はネーデルラントへの支援を決めます。しかも単なる支援に留まらず、「スペイン船は奪略してもおとがめなし」という私掠特許状をイギリスの海賊等に向けて発行しました。


これに激怒したフェリペ2世は1588年、130隻からなる大艦隊をイギリスに向けて出撃させました。両海軍はドーヴァー海峡で激突します。このアルマダ海戦です。このアマルだ海戦は当時最強と言われていたスペインにイギリスが見事勝利しました。


エリザベス1世がネーデルラント支援を決めた理由は、イギリスの貿易政策にありました。イギリスは毛織物の原料となる羊毛を重要な輸出産業としていました。羊毛はジェントリ(平民の新興地主)がヨーマン(豊かな農民)の囲い込み(エンクロージャー)による羊の飼育によって生産され、ネーデルラントに輸出されていきました。


つまり、イギリス経済はネーデルラントにかなり依存していたわけです。

国王と議会の対立が市民革命を引き起こします

1603年、生涯独身を通し、子がいなかったエリザベス1世が亡くなると、イギリス議会はスコットランド王ジェームズ6世をイギリス王ジェームズ1世として迎え入れます。ここからスチュアート朝の始まりです。


しかし、ジェームズ1世と次の国王チャールズ1世はイギリス議会を軽視し、王権神授説を振りかざして、ジェントリたちが集う議会を敵に回してしまいます。


チャールズ1世の暴政により、国民の権利を無視して不当逮捕を行ったり、ピューリタン(イギリスのカルヴァン派)を弾圧したりすると、1628年、議会は王に対して「権利の請願」を提出し、議会と国民の権利を守るように要請しました。


その後も王と議会の対立は続き、ついに王党将軍と議会派軍による内戦へと発展します。当初は王党派軍が優位に戦いを進めていましたが、ジェントリ出身でピューリタンクロムウェルが劣勢を跳ね返して議会派軍に勝利を導きます。


この対立の結果、チャールズ1世は逮捕されて、ロンドンの広場で処刑されます。これをピューリタン革命と言います。ピューリタン革命のリーダー・クロムウェルは新たな王を置かず、護国卿となって独裁政治を行いました。


しかし、クロムウェルの死後、護国卿を継いだ息子のリチャードに父クロムウェルほどの指導力がなく、1660年、議会はチャールズ2世を即位させます。このとき、またリーダーとなるべき王が必要という議論になり、王政が復活したという意味で、王政復古と言います。

英蘭両雄が激突!果たして勝敗は?

クロムウェルが実権を握った頃のイギリスは、ネーデルラントから最大のライバルと目されるまで成長しています。そんななか、1651年イギリスはオランダ商船の排除を目的として航海条例を制定します。これに強く反発したネーデルラントはイギリスと開戦、3度にわたる英蘭戦争が展開されました。

しかし、ネーデルラント陸続きのフランスの横やりを受け、同時に英仏両国を相手にできなくなり、イギリスとの協調路線を選択しました。これには、当時のオランダ総督であるウィレム3世の妻メアリの実家がイギリス王室だったことも大きく関係しています。

一方、イギリスでもチャールズ2世の後を継いだジェームズ2世と議会の対立が深まっており、議会はジェームズ2世に代わる王として迎え入れようと、ウィレム3世のもとに招請状を送っていました。(昨年まで争っていた国の王に自国の王になるよう手紙を書いていたのですか・・・)

このネーデルラントへの招請状、議会の動きを知って身の危険を感じたジェームズ2世は亡命しました、誰も血を流さず革命が達成されたため、これを名誉革命といいます。

こうして1688年12月、ウィレム3世はメアリとともにイギリスに渡り、翌1689年2月にはイギリス王ウィリアム3世と王妃メアリ2世として即位しました。イギリスはウィリアム3世とメアリ2世の共同統治による英蘭の同君連合という形になります。

さらに英蘭はフランスに対抗するべく2つの条約を結ぶが、その内容は全盛期のオランダを知る者にとっては屈辱的な物でした。

1つめの条約は両国軍の任務分担比率を定めたもので、陸軍ではオランダの5に対してイギリスは3、海軍ではイギリスの5に対してオランダが3。共同作戦の指揮はイギリスが執ることになっていました。

2つめの条約はオランダがフランスと貿易を行うことを禁止するもので、それまで「自由航行、自由貿易」の旗のもと、交戦相手国とも貿易を行ってきたオランダの国是に反するものでした。

この2つの条約によってオランダにはイギリスによる足かせが付けられたのでした。

rekiblo.hatenablog.com