太陽が沈まない国スペインに対抗したオランダ・ネーデルラントの商売根性

Amsterdam
※オランダの繁栄の中心地となったアムステルダム

国際商業都市となるネーデルランド

世界に股をかける大帝国に成長したスペインですが、同時に他国から借りた莫大な借金も同時に背負っていました。スペイン王カルロス1世が、フランスやオスマン帝国との戦争を繰り返したために積もり積もってもう首が回らないようになっててしまったものです。


その借金を返さすため、まずは国の金庫に貯蓄しなければなりません。そのため、カルロス1世が引退した後の王フェリペ2世は重税を課して税収の拡大に努めます。


フェリペ2世の重税によって、たしかにカルロス1世の治世から税収は3倍に増えましたが、急激に税金が増えてしまうので、当然、農民がスペイン国から逃げ出します。スペインの農村はどこもかしこも荒れ果ててしまうことになります。さらに不運なことに、天候不順とペストの流行も重なり、スペイン全土著しく人口が減少してしまう緊急事態となります。


その結果、アメリカ植民地でも銀の産出量が激減し、スペインの港や船舶がたびたび海賊に襲われることになり、スペインに対する逆風が止まらなくなりました。

さてさて、スペインの港を襲った海賊は実は裏でイギリスとネーデルラント(オランダ)が操っていたことが判明しています。特にネーデルラントは名家ハプスブルク家の領としてスペインの支配下にありましたが、このネーデルラントの反抗こそスペインの凋落を決定づけるものとなりました。


ネーデルラントはこのとき、飛躍的な経済成長を遂げていました。毛織物工業の発展に加え、外洋(アジア・アメリカ)とヨーロッパをつなぐ中継貿易の拠点(アムステルダム港)として栄えたのです。


当時、ポルトガルとスペインの外洋進出によってヨーロッパの経済の中心は地中海から大西洋へと一気に移り変わったのですが、ネーデルラントは大西洋貿易圏の最大の拠点に成長していきました。


その原動力となっていったのは、プロテスタント系のキリスト教宣教師集団を中心としたカルヴァン派の商工業者や難民としての流れ込んできたユダヤ人たちです。

自由と繁栄を目指して超大国に牙を剥く

プロテスタント派と相反するカトリックの守護者を自負するスペイン王フェリペ2世にとって、ネーデルラントでのカルヴァン派勢力拡大は黙って見過ごせるものではありません。そして、財政難を解決するためには新税の導入や増税をまだまだ続けたいと考えているところでした。


そこで、フェリペ2世はネーデルラントに対してカトリックへの信仰(改宗)を強制すると同時に、都市へ重税を課していきます。当然のように、ネーデルラントの貴族たちはスペインによる中央集権的な統治と宗教的圧力に対して強い反発を募らせていきました。


1568年、ついにネーデルラントオラニエ公ウィレムを指導者に立て、スペインに対する独立戦争開始します。スペインとネーデルラント戦争は長期化し、12年間の休戦を挟んで1648年まで80年間続けられることになります。


1579年にはカトリック教徒の多かったネーデルラント南部10州が戦争から脱落しますが、プロテスタント教徒が多かった北部7州は団結を強化してユトレヒト同盟を結成し、徹底的にスペインに抗戦しました。


さらに、スペインの旺盛を良く思っていないイギリスもユトレヒト同盟の支援に回りました。しかも、ただ支援するだけでなく、スペインと直接戦って勝利を収めました。1588年、当時無敵艦隊(アマルダ)と称されていたスペイン海軍が、イギリス海軍に惨敗を喫します。この海戦をアルマダ海戦と呼びます。


スペインの力が衰えてきたことを象徴する事件になりました。アマルだ海戦の敗北がさらなる後押しになって、スペイン不敗神話は崩れ去り、ユトレヒト同盟は大いに勇気付けられることになるのです。

1581年、ユトレヒト同盟がネーデルラントの独立を宣言したことで、ネーデルラント連邦共和国が設立されました。宣言当初、スペインはこの独立を承認しませんでしたが、1609年にようやく休戦条約が結ばれ、名実ともにネーデルラントは独立を勝ち取ることになります。

商魂たくましいオランダ商人が世界の海へ

ネーデルラント(オランダ)自ら海洋進出に乗り出したのは、スペインと独立戦争を争っているさなかでした。


大航海時代に入ると、ポルトガルやスペインの商船が海外からもたらした商品はネーデルラントの港を中継地点にして、ヨーロッパ各地に運ばれるようになります。こうしてネーデルラントは国際商業の中心として急成長を果たしたのですが、当初の中心地は独立戦争から離脱した南部10州にあるアントワープでした。


しかし、1585年にアントワープがスペイン軍に占領されると、同地の貿易商人たちはいっせいにネーデルラントの中心地であるアムステルダムに移り住みました。巨大な資本と国際的な取引の中心がアムステルダムに移ったのです。このころからネーデルラントではなく、オランダと呼ばれるようになります。


こうして国際商業の中心がネーデルラントの中心に来たことで、一気にオランダがアジア進出を開始し、インドに東インド会社を設立することになります。


オランダは中継貿易と毛織物工業で蓄えた潤沢な資金と高度の造船技術から生み出された圧倒的な海軍力を活かして、マラッカやセイロンなどにあるポルトガル領を次々に奪っていきます。


ポルトガルは人口150万人程度という小国だったこともあって、広げ過ぎた航路を維持するのが困難な状態に陥っていました。その失敗に学び、オランダがポルトガルが作った1本の航路のみを狙い、そして確保するため、選択と集中が冴えわたり次々とポルトガルを駆逐していきました。


ポルトガルに代わり、アジアの貿易の主役となったオランダは、ポルトガルが築いたアジアない貿易のルートを活用します、アジアにいくつかの拠点を設けてアジア内で貿易を行い、その利益で香辛料を買い付ける方法です。この方法は期待通りの成果を上げて、オランダの1世紀以上に及ぶ繁栄へとつながりました。


そして、アジアを手中に収めたオランダ船は大西洋も渡っていきます。スペインの資金源であるスペインの銀を絶つことを目的として、1621年に西インド会社を設立し、貿易事業だけでなく植民地支配にも乗り出しました。ポルトガルからブラジルの一角を奪ったことをはじめ、北米大陸でもマンハッタン島(ニューヨークの自由の女神ある島)などを確保しました。


ただし、オランダの快進撃も長くは続きません。歴史は繰り返す、諸行無常と言いますが、ここからの主役はオランダの独立を支援していたイギリスです。イギリスのアメリカ大陸の進出が始まります。それはまた別の機会に。

アムステルダム 裏の歩き方

アムステルダム 裏の歩き方

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