蒙古襲来絵詞読み解く鎌倉武士のスタンドプレー

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蒙古襲来絵詞”が書き遺された理由

中学校のとき、元寇の様子を描いた絵画資料として、“蒙古襲来絵詞”を教科書などで見たことはないでしょうか。
左手には毒矢を放つモンゴル軍、中央では「てつはう」と呼ばれる火薬兵器の轟音がとどろき、右手には真っ赤な鮮血をしたたらせ、いななく馬に騎乗しながら奮闘する鎌倉時代の武士の絵が描かれています。

この武士の名は、肥後(現在の熊本県)の御家人竹崎季長です。まさに、「未曾有の国難に決死の覚悟で立ち向かう武士」というキャッチコピーがぴったり当てはまる、迫力ある絵です。


しかし、当時の武士たちが、日本人という民族意識を持って、本当に「未曾有の国難」だと思って、「日本を守る」ために戦ったのでしょうか?


実はこの“蒙古襲来絵詞”は、武功を立てて鎌倉幕府の将軍から恩賞を得たことを子孫や将軍に伝えるために、竹崎季長自身が描かせたものです。この絵には元寇当時(鎌倉時代後期)のの武士たちが置かれていた状況と、元との戦いに臨む意識が反映されています。

鎌倉幕府の政治的・軍事的な基本単位であった惣領制

鎌倉時代武家社会の特徴に惣領制があります。惣領制とは、鎌倉時代の武士たちの血縁的な集団を形成し、鎌倉幕府が全国を支配する上で、政治的・軍事的な基本単位を形成していました。


血縁関係のある一族の長である惣領を中心とした武士団の血縁的統合を惣領制と言いますが、その内部では2つの原則がありました。


一つ目は、惣領の命令には庶子(一族の者)が必ず従うことです。平時には惣領が祭祀などを取り仕切り、戦の時にも惣領が一族の指揮官となりました。こうした強力な権限がありました。


二つ目は、一族の所領を分割相続することです。鎌倉時代の武士は、平時は土着した地域に館を構えて農業に従事しながら所領の支配に当たっていました。惣領も一族の所領を独り占めすることなく、庶子に分け与えてその土地を支配させていました。分割相続を取る理由は、惣領の命令に従ってさえいれば、所領は必ず相続されることが確保されているので、血縁的な絆が保たれていたのです。


そして、惣領性は御恩と奉公の封建主従関係とドッキングすることで、鎌倉幕府を支えていました。


多く御家人は、一族を代表した惣領でした。惣領=御家人は将軍から御恩を与えられると、これを分割相続で庶子たちに振り分けます。そして、奉公として幕府から軍役を仰せ使われば、庶子を率いて戦場に馳せ参じました。


つまり、惣領制は将軍にとっても便利な制度であって、将軍は惣領=御家人とだけ主従関係を結んでいれば、あとは御恩も奉公も一族の内部でうまく回してくれると言う訳です。このようにして、惣領性の血縁的紐帯は幕府を支える基本単位になりました。

この惣領制封建制度の仕組みは、元寇においてもフル稼働します。御家人・武士たちはモンゴル軍の襲来した博多湾岸に集結します。しかし、彼らは「日本軍(幕府軍)」という形で組織・統率されていたわけではなく、血縁単位の武士団(惣領制)が個別に戦っていました。


もう一度、「蒙古襲来絵巻」を見れば、3人のモンゴル兵がフォーメーションを組んでいることが分かります。モンゴル軍はこのころから集団戦法をとっていましたが、日本の武士は1対1でモンゴル兵士に戦いを挑みます。一昔前のヨーロッパ勢と南アメリカ勢のサッカーの試合のような構図です。

鎌倉武士はなぜ一騎打ちを挑んだのか?

しかも、日本の武士は「やあやあ我こそは、肥後の国の竹崎季長である」と名乗りを上げてから、敵に対して一騎打ちの戦いを挑みます。正々堂々と敵に向かう日本の侍・武士の独特の美徳のように思われがちですが、実際には将軍から恩賞を受け取るために自分の名前を叫ぶ必要な作法でした。


写真や動画がもちろんないこの時代、自分がどれほどの戦功を挙げたのかを、戦の後で証拠立てる必要がありました。そのためには、戦場でも名乗りの声を周囲に聞かせる必要がありました。この名乗りの作法は、モンゴル軍に対してではなく、後で恩賞を受けるため味方に対して行ったものなのです。日本語が通じるわけがないモンゴル人に自分の名前を聞かせたところで意味がありませんからね。


恩賞が目当てとすれば、武士が“誰が最初に敵軍に突っ込むか”先駆けを争った理由も分かります。恩賞は先駆けをした者に与えられる、それが武家のならいだったのです。


蒙古襲来絵詞”の詞書(台詞)には、「みかたは続き候らん。御待ち候て、証人を立てて御合戦候へ。(現代訳:見方は続いておりますので、お待ちになって証人を立ててからお戦いになったらいかがですか?)」と忠告する家来に対して、竹崎季長が「弓矢の道、先を以て賞とす。ただ懸けよ。(弓矢の道では先陣を切ったものが恩賞を貰うことになっている。ためらわず先駆けよ)」とハッパをかけている場面が記されています。


味方を待った方が、誰が先駆けたのか知らしめることができますからね。家来の忠告の意味も良く理解できます。敢えてこの場面を書かせたのは将軍にアピールするためのものですね。


一騎打ちを挑んだ理由も同様です。1対1でなければ、誰が戦功を挙げたのか判断がつかなくなってしまうからです。だからこの時代の武士には、「全軍一丸となって」といったチームプレーの精神のかけらもありません。


蒙古襲来絵詞”にはこのような場面があります。上陸してきたモンゴル軍を同じ肥後の御家人菊池武房が数百騎の軍勢で挑み止めたのを見て、竹崎季長はわずか5騎の手勢で立ち向かおうとします。「恩賞が欲しい」、その思いが季長に集団戦略を無視したスタンドプレーを取らせたのです。


博多湾への石築地の建設なども命じられました。ですが、血縁単位の武士団が個別に請け負いましたから、まだらになっていたそうです。

竹崎季長を先駆けに向かわせた事情

それにしても、モンゴル軍を待ちかまえるのではなく、日本の武士たちはわざわざ先陣を切って飛び出しますが、干潟に足を取られたところにモンゴル軍に毒矢の雨を浴びせられるわけです。危うく命を落としそうになってまで、竹崎季長を先駆けに逸らせたものは一体何だったのでしょうか。


元寇のあった鎌倉後期の頃、多くの武士は困窮にあえいでいました。その理由としては貨幣経済の発達による出費の増大・分割相続の繰り返しによる所領の細分化などが挙げられます。仕方なく先祖伝来の所領を譲り、家来として仕えた武士も多くいたそうです。


そうしたことに「モンゴルの襲来に備えて異国警固番役につけ」といった幕府の命が来るのですから、その見返りの報酬を期待しないわけにはいきません。竹崎季長もそうした一人と馳せ参じ、先駆けを争ったのです。


1回目の元寇である文永の役がモンゴル軍の撤退で終了した後、季長は肥後に戻って恩賞はまだかと首を長くして待ちました。しかし、いつまでたっても鎌倉幕府から知らせは来ません。しびれを切らせた季長は、肥後から遠い道のりを歩き、はるばる鎌倉へ向かいます。そして、恩賞奉行を務めていた足立奏盛の邸宅まで出向き、家来に描かせた“蒙古襲来絵詞”を見せながら恩賞の直訴に及ぶのです。


奏盛は、季長の執念に負けたか、所領安堵の下文と馬を与えることになりました。「蒙古襲来絵詞」にも続きを書いて、恩賞を授与される場面がバッチリと描かせました。これで、竹崎季長が「蒙古襲来絵詞」を子孫に残した理由も理解できるでしょうか?


いわば“蒙古襲来絵詞”とは、サラリーマンが上司に説明するためのプレゼン資料でもあって、子孫に対しては自分の功績を残すための給与明細と言ったところでしょうか。


「死に物狂いで先駆けて、所領を取り戻したのは自分である。子孫たちよ記憶にとどめておけ」武士たちにはやはり、「未曾有の国難から国を守ろう」といった意識はなかったんだと推測できます。


しかし、事実としては、困窮という現実に直面した武士たちの利己心によって、確かに日本は守られたのです。このときにモンゴルに支配されていたら日本はどのような国になっていたのか、今とは全く違う状態になっていたのかもしれません。


ちなみに元寇が失敗に終わった理由は?というと

元の由来は、13世紀の初め、モンゴル高原に現れたチンギス=ハンは、ユーラシア大陸一帯を支配下においていたモンゴル帝国ですチンギス=ハンの遺産を引き継いだ孫のフビライ=ハンは、国号を元に改めて中国の支配に乗り出しました。そして、朝鮮半島の高麗を服属させると、次の標的として日本に朝貢を求めてきました。


このとき、受けて立ったのが、まだ20歳にもならない若き8代目執権・北条時宗でした。北条時宗は、元から朝貢を拒否しました。


鎌倉幕府の返答によって、フビライ=ハンは日本侵攻を決定します。

しかし、騎馬民族の出自で海には不慣れなフビライは、日本への使節の派遣・軍船の建造などに、高麗の政府や人民を利用しました。しかし、それは無理な負担を強いるものです。高麗の人たちも大いに反発しました。


高麗の宰相が使節の引き返し工作を図った様子を伺うことができます。


元寇の少し前、三別抄の乱と呼ばれる高麗の軍隊の抵抗を描いています。三別抄は、高麗王室の護衛にあたった選抜の精鋭軍でしたが、江華島済州島などを拠点に抵抗したのです。ここでは、鎮圧されたのが1273年、つまり、文永の役の1年前であることに注目して下さい。三別抄の乱によって日本征討は遅らされたのです。


人民を軍船建造に徴発したことも分かりますが、「期日までに完成させた」という記述が残っており、無理な突貫工事で粗略な軍船ばかりであったことを想像させます。当時のモンゴル人には船を作る技術がなく、突貫工事であることに気付けていなかったわけです。時ならぬ暴風に軍船が耐えられず、撤退を余儀なくされた要因の一つにもなりました。


そして、モンゴル軍は混成軍であったことから、そもそも士気は高くありません。神風と呼ばれた台風が博多湾を直撃したことで、突貫工事の船が倒壊してこうして元寇は失敗に終わりました。


フビライは3回目の日本征討も計画していたようですが、日本以外のアジアでもベトナム等でも抵抗の動きがあったため、断念せざるを得ませんでした。このように、俯瞰的で世界史的な観点から見れば、日本の武士だけの力ではなく、アジア全体の人たちによって日本は救われた結果になったと言えますね。


rekiblo.hatenablog.com

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冷戦が終結し、社会主義体制の崩壊が招く紛争の数々

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冷戦が終わって時代の終わりは各地で紛争が多発する紛争時代への始まり

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当然、国連イラクに対し、クウェートからの撤退を要求しましたが、イラクはこれをはねつけます。イラクの態度を受けてアメリカは多国籍軍を編成し、イラク軍に攻撃を開始します。クウェートからイラク軍を追い出した上、イラク国内の軍事設備や都市を破壊しました。湾岸戦争イラクが停戦決議を受託したことで終結しました。

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ポーランドで労働者運動の造反

ソ連からの圧力を受けて、ポーランドでは、政治・経済など、国民が様々な面で変革を求める声を高く上げていました。ポーランド社会主義国でありながらも1980年に政府と共産党のどちらの統制も受けない労働組合が誕生しました。この自主管理がなされた労働組合を「連帯」といい、またたく間に947万人の組合員を擁する大組織へと成長していきました。


この「連帯」の成長を脅威と判断したソ連ポーランドとの国境に軍隊を集結させ、ワルシャワ条約機構による合同軍事訓練という名目で、明らかなポーランドに威嚇行為を繰り返しました。ポーランドの情勢が東側陣営の結束を揺るがすような行為は許されない、ポーランドソ連に造反したときはハンガリーチェコスロヴァキアのときのように軍事介入を行うという警告と、世界中に映りました。


当のポーランドのヤルゼルスキ首相は、1981年12月、戒厳令を出し、「連帯」の活動家6774名の身柄を拘束し、ソ連からの疑い晴らし、事態を収拾しようと取り組みます。ただし、ヤルゼルスキ首相もそれ以上の弾圧を行わず、ソ連の軍事介入を回避しながら、同時にソ連の顔も立てようとしました。ヤルゼルスキ首相はかなりやり手の首相だったんですね。

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