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江戸時代の変化がよく反映された元禄文化と化政文化

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※天下の台所と呼ばれた大阪の現在の様子(道頓堀)

江戸時代を代表する文化、元禄文化と化政文化はどう違うのか

江戸時代には代表的な二つの文化がありました。17世紀後半の元禄文化と19世紀前半の化政文化です。元禄文化と化政文化については、特徴や担い手など様々の面で対照的な性格を持っています。元禄文化と化政文化の違いを理解することができれば、17世紀後半から19世紀前半にかける100年間で近代化の流れを理解することができます。大学の日本史の試験でも元禄文化と化政文化の違いを理解しておけばなんなく解けた問題があります。

まず、17世紀後半・元禄文化の担い手となったのは、上方(大阪・京都)などの町人です。特に大阪は、17世紀後半に全国流通網が完成すると全国各地から産物が集まって、経済的な繁栄を謳歌していました。このころの大阪は「天下の台所」と呼ばれていました。


この当時の大阪は、藩の治世から独立して、惣年寄を中心にした町政も自治的に行われてきました。大阪の町人は、自分たちが大阪を支えているといった自負があったことでしょう。


元禄期の職業的な俳人であった小西来山が詠んだ「お奉行の名さえ覚えずと暮れぬ」という一句があります。そこに表明されているのは明らかに幕府の権威に対する姿勢があります。この句の前書きには「大坂も大坂、まん中に住みて」とありました。※当時の大阪は“大坂”という地名で呼ばれていました。

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江戸幕府の鎖国、江戸幕府は内に閉じこもってなどいなかった

対馬藩の城下町厳原
対馬藩の城下町

江戸幕府鎖国しているわけではなかった?

江戸時代には、「鎖国」政策によって海外との交流を拒絶していた----そのようなイメージを一変させるエピソードを紹介したいと思います。


1673年、イギリス船が長崎の出島に来航して貿易の再開を求めてきました。「鎖国」直後の17世紀半ばはこうした往来が時折あったようですが、このとき幕府は国王チャールズ2世がカトリック国のポルトガル王女カサリンと結婚したことを理由に、貿易の再開を拒否しています。


幕府が「鎖国」を行った最大の理由はキリスト教の禁教であり、布教と貿易を不可分とするカトリック国・ポルトガルの排除を目的としていましたから、幕府の言い分には道理があるように思います。というよりも、この当時にイギリス国王が誰と結婚したか、という情報を幕府が入手できていた、情報網の方が驚きです。


なぜ、江戸幕府はなぜ遠いヨーロッパの王室の結婚などという情報を知っていたのでしょうか?これだけの情報量と外交力は、「鎖国」の殻に閉じこもっていたというイメージとは異なります。

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近年では、「開かれた鎖国」という観点から江戸幕府の外交体制に関する研究が進められています。そもそも、「鎖国」の語は、オランダ商館の医師として来日したドイツ人のケンペルが帰国後に「日本誌」を著し、19世紀初頭にその一部を幕府の長崎通詞だった志筑忠雄が「鎖国論」と題して訳したことから、幕府の対外政策を指す言葉として用いられるようになりました。


ですから、「鎖国」政策を推し進めていた17世紀前半に「鎖国」という言葉自体はなく、徳川家光ら当事者には国を閉ざした感覚はなかったのかもしれませんね。

江戸幕府の「4つの口」

江戸幕府は、キリスト教の禁教の徹底と貿易による西国大名・豪商の富裕化の防止を目的として、日本人の海外渡航やヨーロッパ人の来航を厳しく制限する政策をとりました。


1639年にポルトガル船の来航を禁止したあと、1641年にオランダ商館を長崎に建設した「出島」に移し、「鎖国」完成したようにも見えました。


しかし、これによって海外との交流が完全になくなったわけではありません。長崎出島にはオランダ船の他に中国の私貿易船も来航し、朝鮮からは対馬琉球からは薩摩を通じて使節団が来日しています。また、松前に交易権を認める形で蝦夷土に居住するアイヌとの交易がおこなわれていました。


つまり、長崎出島、対馬、薩摩、松前の4つの港が海外の窓口として開かれていたわけです。これを「4つの口」体制と呼んでいます。幕府は、窓口を絞り込むことで国内への影響を最小限に留める一方で、貿易の利益や海外の情報を独占しました。


鎖国」政策は、幕府の全国支配が外側から脅かされるのを防ぐ、バリアの役割を果たすとともに、海外交流を安定的で効率的なものとしていたのです。

長崎出島=オランダ・中国の窓口

鎖国」が整った後も、外交を続けていたオランダですが、正式な国交は結ばれず、バタビア(現在のジャカルタ)の東インド会社の支店として長崎出島に商館が置かれて、幕府の管理下に貿易が行われました。


中国とも国交は樹立されていません。17世紀後半に明から清に代わり、国情が安定すると、中国人の私貿易船の来航が増加しました。これに対し、幕府は金銀の海外流出を防ぐため、数度にわたって貿易額を制限しています。また、長崎市中に唐人屋敷を設置し、中国人の居住地を制限しました。


なお、来日した新任のオランダ館長は、長崎から江戸に赴いて将軍に謁見し、そして、海外の動向としてオランダ風説書を提出しました。これが王室の結婚の情報を知っていた理由です。しかも、この風説書は幕府の要人しか閲覧できないトップシークレットでした。こうして幕府は情報を独占したのです。

対馬=朝鮮の窓口

九州と朝鮮半島に挟まれる形で日本海上に浮かぶ対馬は、山が多く耕地に恵まれないため、朝鮮との貿易が生命線でした。そこで、豊臣秀吉による朝鮮出兵ののち、決死の覚悟で明と日本の和平交渉に乗り出しました。


1599年に送った使いは、誰一人対馬に帰ってくることはなかったそうです。まさに命がけですね。


そこで、対馬の支配者である宗氏は、江戸幕府を後ろ盾に国交を回復する道を選びました。幕府にとっても、東アジア外交に乗り出す良い機会です。宋氏は、朝鮮側に送る家康名義の国書と朝鮮側から送られてきた文章の両方をでっち上げて取り繕いました。こうして、1607年、徳川将軍から国書への回答と朝鮮人捕虜の相関を目的とする回答兼刷還使が来日し、国交回復が実現します。


この使節はのちに「通信使」と呼ばれるようになり、19世紀初頭まで、将軍の代替わりごとに12回来日しました。

また、朝鮮と宗氏の間では1609年に己酉約条が結ばれ、宗氏には歳遣船20艙と釜山への和館の建設が認められます。念願の貿易を確保したのです。


日朝貿易はやがて、長崎貿易の貿易量が制限されるなかで、京都西陣で生産される絹織物の原料である中国産生糸の輸入ルートとしても重要になってきました。

薩摩=琉球の窓口

1492年に中山王の尚巴志が北山・中山・南山の3つの勢力圏を統一して建国した琉球王国は、東~東南アジアの海上の要所という地の利を生かし、中国の明と東南アジア諸国との中継貿易で栄えました。


海禁政策(中国人商人の海外渡航を禁止する政策)を採る明にとって、琉球は東南アジア産の蘇木や香木の入手ルートとして重要でした。貿易用の船を提供し、外交能力のある江南人を送りこんでいるほどです。 三山時代も含め計171回という朝貢の回数が、明における琉球の地位を証明しています。

しかし、琉球の繁栄は長くは続きませんでした。16世紀に入り、明の衰退とともにヨーロッパ諸国がアジアに進出してきたため、琉球は中継の地位を奪われます。そして、江戸幕府の設立後の1609年、薩摩から侵攻をうけると、ほとんど抵抗もできぬままの首里を占領されてしまったのです。

江戸時代、琉球からは薩摩を通して、将軍の代替わりごとに慶賀使が、琉球国の代替わりごとに謝恩使が送られます。一方で、薩摩藩は中国との朝貢関係を維持させ、黒砂糖の密貿易ルートとして利用しました。

松前アイヌの窓口

アイヌが居住する蝦夷地には、中世のころから豊富な海産物や木材の資源などを求めて和人商人が進出していました。津軽の土佐湊を日本交易の拠点として、現在の北海道南部に館が建設されています。

圧迫されたアイヌは、1457年に首長コシャマインを中心に蜂起しますが、蠣崎氏によって鎮圧されています。蠣崎氏は江戸時代初頭に松前氏に改姓します。そして、1609年に徳川家康から黒印状を授与され、蝦夷地での独占交易権を認められました。

蝦夷地も対馬と同じく耕地に恵まれませんでしたので、交易権が大名知行制における知行地の代わりとなりました。松前氏は、交易の場の知行権を与えるという形で家臣と主従関係を結んでいます。

海産物を加工した俵物は長崎出島に持ち込まれて中国への主要輸出品となるとともに、木材は江戸などで消費されました。また、商品作物に欠かせない肥料として出荷されたのがニシンから作られる〆粕です。18世紀後半には九十九里浜の干鰯のシェアを逆転しました。

日本版華夷秩序の形成

さて、江戸幕府の外交体制は、「日本版華夷秩序の形成」という観点からも捉えなせます。幕府は古代の朝廷と同じものを志向していたのです。


例えば、琉球から派遣された慶賀使・謝恩使は、民族衣装での道中の行列を強要されました。そこには、あたかも「異民族」が将軍に入貢しているかのような演出が見て取れます。


また、アイヌとの独占交易権を認めた松前氏に対しては、同時に「蝦夷の儀は何方江往行し候共、蝦夷次第たるべき事」と申し渡し、アイヌの行動の自由も保証しました。つまり、家康はアイヌ民族の保護者としてふるまったのです。


こうした幕府の姿勢に苦心したのが、朝鮮との仲介にあった対馬藩です。幕府は通信使を朝貢扱いし、一方で朝鮮は対等な立場であると考えていたので、双方のメンツを立てるため対馬藩は再三にわたって国書の書き換えを行っています。


これを「改ざん」「偽物」というのは忍びないでしょう。こうした涙ぐましい努力があったからこそ、荒波立てず穏便に済ますことができたのです。そして、対馬藩にとっても命綱の日朝貿易を継続することができました。


1635年には、対馬藩家老の柳川調興がながん年に渡る国書偽造を幕府に訴えるという事件・柳川一件が発生します。実情は柳川調興の主君宗義成に対するクーデターということだったようですが、3代将軍家光の御前で両者が意見を戦わせた末に、宗義成は無罪、柳川調興津軽に流罪とされました。


つまり、幕府はこれまでの経緯を不問とし、宗氏を仲介として朝鮮との関係を保つ道を選んだのです。日本版華夷秩序という「タテマエ」が、どのようにして守られてきたのかを幕府はちゃんと理解していたことになりますね。


ここに、中国の状況が加わります。1644年に明が滅び、「夷狄」満州族の清が北京に都を遷して全土を統一するという事態が、日本の支配者・知識人の自意識を満足させたことは想像に難くはありません。


儒学者で日本独自の古学を創始した山鹿素行は、著書「中朝事実」において、異民族に征服された歴史や王朝が交替した歴史のないことを根拠に、日本こそが「中華」であると主張しました。


歴史は繰り返すとよく言いますが、それは民族的な特性によって引き起こされることなのかもしれません。そして、その特性は意識されないほど私たちの身に染みついているのかもしれませんね。

大久保利通は権力に溺れた独裁者だったのか

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大久保利通像@鹿児島市

大久保利通「悪者」観への挑戦

維新三傑」と並び称される西郷隆盛木戸孝允大久保利通の3人のうち、郷里鹿児島の士族と共に死の道を選んだ西郷、政府内の融和に苦心しながら病に倒れた木戸に比べて、大久保利通の評価は“嫌われ物”ということが多いようです。

大久保利通は晩年に盟友だった西郷を追いつめたや、やれ自由民権運動を踏みにじったと、芳しいものではありません。

確かに歴史の教科書等に描かれている大久保利通のイメージには強権政治化がつきまといます。多くの高校生が使用している「日本史B用語集」に掲載されている「大久保利通」のページには「藩閥政府の中心として権力をふるった」とだけしか書かれています。

しかし、本当の大久保利通は、幕府を討伐したのちに権力に溺れて志を失った独裁に走ったのでしょうか?大久保利通の行動には、当時の日本と世界の状況を見据えた上で国づくりに関する確かなビジョンがあったと思うのです。

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江戸時代の経済状態は大名の参勤交代から見れば分かりやすい

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江戸の経済を発展させた参勤交代

江戸幕府を特徴的な制度として参勤交代がありますよね。参勤交代はとは、将軍が大名統制する政策の一つとして、江戸と国元の往復を義務付けた制度です。


大名は原則として1年ごとに江戸と自分たちの藩を繰り返しました。そして、大名のの妻子には江戸への居住が命じられていました。


参勤交代自体は、江戸時代から始められた制度ではなく、その古くは鎌倉時代の番役にまで遡ることができますが、原型は戦国大名が家臣に行わせた本城勤仕であると考えられます。


その後、織田信長による大名の安土参勤や、豊臣秀吉による大名の上洛(山洛伺候)などが行われ、1635年、3代将軍徳川家光が発した武家諸法度で参勤交代として制度化されました。


参勤交代の最も大きな功績は経済発展です。大名の交通が増えることから、「将軍のおひざ元」である江戸が人口100万人の大都市に発展する要因にもなりましたし、彼らが参勤交代のルートとして使う五街道をはじめとした交通網のが発達を促されました。

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歴史を振り返っても、戦争は政府の都合でしかない。~古代の朝廷はどうして白村江の闘いに向かったのか~

Horinji (法輪寺)
百済考古遺跡

戦争への引き金は何か?

戦争というと、国の間で生じた紛争や対立を、部力を行使して解決しようとすることです。まさに今の北朝鮮の問題で、アメリカが北朝鮮へ軍事介入をしてしまえばそれは戦争と呼ぶことになります。


戦争で争われる問題は、領土問題や資源問題などから他国と利害が真に一致することなど本当にできないので、世界の秩序をバランスを取りながらまとまっている状況で、どんな国でも多かれ少なかれ他国との対立の火種を抱えています。


しかし、他国と意見が食い違うたびに戦争をしていたら、国力を無用に消耗させるだけに終わります。戦争が終わるきっかけのほとんどが、その国の経済力の低下するためです。なので、外交的な努力を重ねてお互いに妥協できる伝を見出そうとします。戦争とは止むに止まれぬ最後の手段であるべきなのです。


だとしたら、戦争への最後の引き金を引くものとは一体、何なのでしょうか?絶対に許せない一線を相手が超えてしまったから、が正解でしょうか

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源頼朝以降の鎌倉幕府将軍は北条氏の操り人形だった、なぜ北条氏が将軍にならなかったのか?

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源頼朝所縁の鶴岡八幡宮、彼は鎌倉幕府が妻とその一族に乗っ取られると予想していたのでしょうか?

将軍を影で操る北条氏

日本史の中では、実権を握っても組織のトップには立たずに、民衆の前で表立つリーダーを裏で操っていたケースが見受けられますよね。例えば、藤原氏摂関政治鎌倉時代の北条氏の執権政治等がそれに当たります。


なぜ、彼らは自らの実権を振りカザなかったのでしょうか。天皇をサポートする立場であった藤原氏の場合ならともかく、北条氏の場合には、自らも武家であり、源氏の血統が途絶えているわけですから、将軍に成り代わるチャンスはいくらでもあったはずですが。

1219年、鎌倉幕府の3代将軍の源実朝が不運にも将軍の後継者争いに巻き込まれ暗殺されてしまい、源頼朝から流れる源氏の正統な血筋断絶すると、鎌倉幕府は頼朝の妹の外孫にあたる当時たった2歳の藤原頼経を京都から将軍といて招き入れ、承久の乱を経て1226年に4代将軍となります。これが摂家将軍の始まりです。

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豊臣秀吉のために全財産を投げ打って関ケ原の戦いに挑んだ石田三成

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主から与えられた財産は主のために使えが戦国のルール

石田三成と言えば、関ケ原の戦いで敗北した負けた武将としてのイメージがほとんどですが、秀吉の下で小姓の身分から関ケ原で西軍を率いる将にまで出世したのでそれはそれは大変優秀な武将で、戦後時代の成り上がりを体現している武将の一人です。

石田三成は、小姓として雇い、自分を拾ってくれた豊臣秀吉のことをとにかく尊敬し、慕う忠臣でした。それを表す記録として、石田三成は普段からこんなことを言っていたそうです。

「奉公人は主人からもらったものも使い切りのこしてはならないオスのであればそれは盗人というものだ。」

現在の我々サラリーマンから見ると会社からむ給料を会社のために使うということでしょう。少し奇異な感じがしますが、こういう考え方は当時としては低めへした。

もっとも、じゃんじゃん遣えばいいとってはいません。遣い過ぎて借金をするような者はバカだ、と斬って捨てるように言っています。

読者の皆さんもご承知の通り、戦国時代の大名は、家臣に対して領地が、蔵米といわれる米そのものは与えて、彼らを養っています。

しかし、主人が家臣に対して領地を新たに働いて収入が増えた場合、その心は、「贅沢をしろ」ということではありませんでした。「兵を増やしてさらに強力になって主人の役に立って」ということでした。

したがって、収入が増えても自分のために使えることはほとんどありません。最も、家は大きくなります。足軽の住む長屋から、秀吉のように一国一城の主になれば、家も城ということになります。


しかしながら、それも「防衛拠点をしっかり守れ」ということでしかなく、富豪が豪邸を構えるとは、まるで意味が異なりました。

ちなみに織田信長の家臣には秀吉と並ぶ佐久間重盛という老臣がいましたが、「加増しているのに、兵を新たに雇わず自分のために使っている」ということを罪科の一つとして、身ぐるみはがされそうな勢いで息子と二人放り出されたほどでした。


戦国の人にとって、収入が増えるということは、こうした意味があったのです。

精勤と才覚の三成

三成は、秀吉の小姓の実から、佐和山城を本拠とする19万石余の領地の主にまで出世します。秀吉の死ぬ三年前のことでした。


三成は加増野意味をくみ取るという意味では、徹底しています。そのことは三成が関ケ原で敗北した際、この三成が居城が攻め落とされたときに、明らかになりました。

城を落とした徳川方の諸将は、喜び勇んで佐和山城に飛び込みます。

何しろ、このとき、莫大な富を誇る豊臣家の五奉行の一人になった男の城です。相当な財貨がそこにはあるだろうと期待しました。

しかし、佐和山城に入ってみると、あまりのことに諸将は拍子抜けてしまいました。

城は質素そのものだったからです。

三成が普段暮らす屋敷には、土壁が剝き出しで上塗りがなく、城内の多くの建物が板張りで、障子や襖はいらなくなった髪を使い、庭にも目を楽しませるべき樹木が一つもないという有様だったということです。


「皆々案外にてありしなり」
『名将言行録』にはこのようにありました。


また、城内をくまなく探しても、金銀の類が全然ありませんでした。

関ケ原合戦は、豊臣家が徳川家康に政権を奪われるのに抗った戦です。三成は、その抵抗の首謀者となり、持てるだけの金銀を戦に投じたのでしょう。

三成が普段から豪語していた「奉公人は主人からもらった物を遣って残してはならない」という心情はここでも実践されていたわけです。三成は秀吉からもらった給料を、豊臣家のために吐き出して死んでいきました。


以上は、三成が死に至った際に判明したことでしたが、普段の精勤ぶりは目を見張るものがありました。それを示す逸話は枚挙にいとまがありません。

その一つ。

おそらく大阪城でのことでしょう。大雨が降った夜などは、城周りが破損でしていれば、三成は真っ先にこれを見つけます。

担当の普請奉行が午前十時ごろに秀吉に報告に行くとすでに秀吉は知っていました。三成がその四時間前の午前六時には報告を済ませていました。夜明けとともに城を飛び出して、城周りを点検して歩いた三成が目に見えるようです。


勤務については、その才覚を存分に活用しました。

大阪城付近の堤防が決壊した際のことです。秀吉自身も視察に行ったので、大名級の家臣たちも現場には赴きましたが、解決策が見つからず、堤防の切り口を前にして手をこまねいているばかりでした。

そこで、三成の登場です。大胆な男でした。城の米蔵を米俵を数千俵を切り口に投げ込ませました。たちまち洪水は収まったので、秀吉もその家臣どももその才覚には舌を巻いたという事でした。

それだけではなく、今度は付近の住人達に土俵を用意させ、米俵と順次取り換えさせました。泥水に浸かった米が食べられたのかは知りませんが、三成としては米をみすみす無駄にはしたくなかったのでしょう。こういうところを見ると、なんだか秀吉のやり方を彷彿とさせます。

まぁ、何というか、こうまでして自分のために働いてくれる部下を持ちたいものですね。秀吉もそんな三成を頼もしくも、いじらしく思っていたことでしょう。

そんな秀吉の気分が「俺がもし死んだら、次の天下人は三成がふさわしい」と言わしめました。それが三成を関ケ原の戦いに奮い立たせた言葉だったのかもしれませんね。

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のぼうの城は面白かったですね、若かりし石田三成が成り上がるために秀吉の真似をする様子が滑稽に描かれています。

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