金閣寺を建てられる程、財産に恵まれいない室町幕府、室町幕府の経済破綻が戦国時代の始まり

室町時代を代表する金箔張りの豪華な建築物、その裏では・・・

予算が少ない室町幕府、酒屋と金貸しに頼る

南北朝時代は、後醍醐天皇の死とともに事実上、終焉しました。実質的には10年にも満たない期間です。しかし、この南北朝時代は、室町幕府の財政に大きな影響をもたらすことになり、ひいては戦国時代到来の遠因になってしまいました。

というのはこの南北朝時代室町幕府の中で揉め事が起きると、すぐに反対勢力が南朝に加担します。こういった構造多発したのです。そのため、室町幕府は自陣の勢力を少しでも増やすために、自分の直轄領を削って武家を引きつけようとしてきました。その結果、直轄領が少なくなっていたのです。

『直轄領が少ない』とは裏を返せば『直属の兵が少ない』ということです。直轄領が少なければ養える御家人の数も必然的に減っていくわけです。

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井伊直虎だけではない、強く美しく戦国時代を生きた戦国姫

龍潭寺境内の井伊氏一族の墓。左から直政、おひよ、直親、直虎、祐椿尼

井伊直虎だけじゃなく、武闘派の戦国女子たち

大河ドラマ「おんな城主・直虎」も、高橋一生演じる小野政次が処刑されて、いよいよ佳境に差し掛かっていますね。

「おんな城主・直虎」のヒロイン・井伊直虎は、戦国時代に男の名前で家督を継いだ「女城主」です。遠江の小さな国の姫が、戦のたびに井伊家の当主が殺され、残された姫が戦国を生き残るための知恵を絞り、必死に家の存続をかけて生き抜くストーリです。

この井伊直虎の奮闘がなければ、徳川四天王にも数えられた井伊直政や江戸時代後期の大老井伊直弼も現れませんでした。

井伊家存続のため、井伊家家臣に裏切り者を最期まで演じさせた小野政次を自らの槍で処刑するシーンは胸にグッとくるものがありましたね。

今日は他にも美貌と武芸で戦国の世を逞しく生き抜いた女性たちを紹介します。彼女たちの中から次の大河のヒロインが出てきたりしませんかね?

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井伊家の復興の活躍は直虎の次の城主・井伊直政

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井伊家の転機でもあった徳川家康との出会い

1561年2月9日、井伊直政遠江の国井伊谷祝田村で生まれました。父は井伊直親、母は奥山親朝の娘です。虎のように強く、松のように末永く栄えることを願い、幼名を虎松と名づけられました。

大河「おんな城主 直虎」の時代背景初期、虎松が生まれた当時、井伊家は受難の時代を迎えていました。虎松の祖父・直盛が前年の桶狭間の戦いで戦死したのを始め、井伊家では虎松の父・直親や曾祖父・直平を相次いで亡くしていました。


その後、還俗した直虎が虎松の後見人となるも、主君・今川家との軋轢で井伊谷統治権を剥奪され、虎松と直虎は龍潭寺に身を寄せることになりました。直後、今川領は武田家と徳川家の侵攻にあい、井伊家の領国と家臣団は侵攻してきた徳川家の傘下に収められてしまいます。

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なぜ徳川家康は秀頼を執拗に追い詰めなければならなかったのか?

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関ケ原の戦い勝利した後も徹底的に豊臣を攻撃した徳川家康

関ケ原の戦いが終わった後になっても、徳川家康豊臣秀頼を執拗に追い詰めたことはよく知られた話ですね。関ケ原の戦いをきっかけに明らかに豊臣方には徳川家康に対抗できるだけの力は残っていなかったはずなのに・・・

方広寺の鐘名「国家安康」を捉えて@家康の滅びを祈念している」と難癖をつけたり、「大阪城の外堀を埋める」という約束で停戦したのに「内堀」まで埋めてしまったり・・・


手段を選ばず徹底的に豊臣家を滅ぼしてしまったのです。そうした数々の所業のために、家康は「悪役」や「悪タヌキ」など悪いイメージを付けられたとも言えます。大阪夏の陣真田丸など最近の家康については敵役になっていますよね。

それにしても、なぜ家康はこれほどまでに執拗に豊臣家を滅ぼそうとしてしまったのでしょうか?

関ケ原の戦いの後、豊臣秀頼は秀吉時代の蔵入地を大きく失って、65万石程度の大名にしか過ぎませんでした。石高だけを見れば、豊臣秀頼は家康を脅かすほどの地位にすらなかったわけです。また、豊臣の恩顧の大名たちのなかでも“豊臣離れ”の動きが進んでいました。豊臣家が力を失うのは、時間の問題とも言えました。

しかも、豊臣秀頼は家康にとって、孫娘の伴侶です。なのに家康はそれでも秀頼叩き、豊臣叩きの手を緩めませんでした。

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日本経済を掌握した財閥と財閥に対する反発がテロや戦争に繋がった

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三菱財閥の祖・岩崎弥太郎の生家

幕末特定の商人に力を与えて作られた財閥

昭和初期、都会でも田舎でも、貧しい生活を余儀なくされていましたが、このごろから一部の財閥が巨大な富を独占していました。

財閥というのは、特定の一族が巨大な企業集団を形成したものです。現在のコンツェルンコングロマリット違うのは、株式などの公開度合いが少なくて、「一族経営」という意味合いが強いという点です。

戦前の日本経済は、一部の「財閥」が産業全体を支配していました。代表的な財閥は今も生き残っている三井、三菱、住友、安田などがあります。

終戦時、三井、三菱、住友、安田の4大財閥だけで、全国の会社払込資本の49.7%を占めており、資産額ではそれよりももっと高い比率を占めていたとされます。日本経済の過半は、数家族の財閥に握られてしまっていたのです。

財閥がなぜできたのかというと、そこは日本特有の事情があります。

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イギリス十七世紀の喧騒、ピューリタン革命のリーダー・クロムウェルも残虐な独裁者だった

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教科書では習わないピューリタン革命の真実

十七世紀は、イギリスの歴史の中でもとても騒々しい時代だと言われています。十七世紀のイギリスと言えば、ピューリタン革命に代表される革命期に当たります。十七世紀の100年の間で王政→共和制→王政と目まぐるしく変わりました。

ピューリタン革命とは、中学の時の教科書のイメージでは、それまでの絶対王政から共和制に移行した、君主つまり王以外の人間が民衆に政治が移った革命だと理解していましたが、実際のところ大きな勘違いをいていたなと思います。

ピューリタン革命の主導者であったクロムウェルは、民衆の代表として王から政権を奪い、民主化を進めた人物と勝手に思っていましたが、結局のところ残虐な独裁者だったのです・・・だから、結局ピューリタン革命後の共和制は長続きせず、15年程度で王政が復活することになりました。

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世が世なら名君にもなり得たルイ十六世

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※ルイ十六世の肖像画

プルボン家5代目当主ルイ十六世

フランスの君主の家系は全部で4つあります。481年に王位についたクローヴィスを開祖とするメロヴィング家、751年に王位についたペパンを開祖とするカロリング家、987年に王位についたユーグ・カペー家、1804年に皇帝に即位するナポレオンを開祖とするボナパルト家の中の4つです。


1328年から1589年まで王位にあったヴァロワ家と1589年以降王位にあったブルボン家はともにカペー家の中の傍系で、王政廃止後にルイ十六世が『ルイ・カペー』と呼ばれるようになったのはこのためです。
フランス革命前の社会システムは、総称して「旧体制(アンシャーム・レジーム)」と呼ばれていますが、その根幹をなすのは絶対王政でありました。絶対王政は、ブルボン家三代目の国王、太陽王ルイ十四世の時代に完成の域に達しました。


『王権神授説』によって地上における神の代理人とされた国王が絶対的権限を持ち、何よりも『生まれ=血筋』が第一とされる身分社会でした。現在の我々の社会は三権分立に基づいていますが、絶対王政においては行政・立法・司法の権限も国王に集中していました。

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