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江戸時代の経済状態は大名の参勤交代から見れば分かりやすい

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江戸の経済を発展させた参勤交代

江戸幕府を特徴的な制度として参勤交代がありますよね。参勤交代はとは、将軍が大名統制する政策の一つとして、江戸と国元の往復を義務付けた制度です。


大名は原則として1年ごとに江戸と自分たちの藩を繰り返しました。そして、大名のの妻子には江戸への居住が命じられていました。


参勤交代自体は、江戸時代から始められた制度ではなく、その古くは鎌倉時代の番役にまで遡ることができますが、原型は戦国大名が家臣に行わせた本城勤仕であると考えられます。


その後、織田信長による大名の安土参勤や、豊臣秀吉による大名の上洛(山洛伺候)などが行われ、1635年、3代将軍徳川家光が発した武家諸法度で参勤交代として制度化されました。


参勤交代の最も大きな功績は経済発展です。大名の交通が増えることから、「将軍のおひざ元」である江戸が人口100万人の大都市に発展する要因にもなりましたし、彼らが参勤交代のルートとして使う五街道をはじめとした交通網のが発達を促されました。

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歴史を振り返っても、戦争は政府の都合でしかない。~古代の朝廷はどうして白村江の闘いに向かったのか~

Horinji (法輪寺)
百済考古遺跡

戦争への引き金は何か?

戦争というと、国の間で生じた紛争や対立を、部力を行使して解決しようとすることです。まさに今の北朝鮮の問題で、アメリカが北朝鮮へ軍事介入をしてしまえばそれは戦争と呼ぶことになります。


戦争で争われる問題は、領土問題や資源問題などから他国と利害が真に一致することなど本当にできないので、世界の秩序をバランスを取りながらまとまっている状況で、どんな国でも多かれ少なかれ他国との対立の火種を抱えています。


しかし、他国と意見が食い違うたびに戦争をしていたら、国力を無用に消耗させるだけに終わります。戦争が終わるきっかけのほとんどが、その国の経済力の低下するためです。なので、外交的な努力を重ねてお互いに妥協できる伝を見出そうとします。戦争とは止むに止まれぬ最後の手段であるべきなのです。


だとしたら、戦争への最後の引き金を引くものとは一体、何なのでしょうか?絶対に許せない一線を相手が超えてしまったから、が正解でしょうか

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源頼朝以降の鎌倉幕府将軍は北条氏の操り人形だった、なぜ北条氏が将軍にならなかったのか?

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源頼朝所縁の鶴岡八幡宮、彼は鎌倉幕府が妻とその一族に乗っ取られると予想していたのでしょうか?

将軍を影で操る北条氏

日本史の中では、実権を握っても組織のトップには立たずに、民衆の前で表立つリーダーを裏で操っていたケースが見受けられますよね。例えば、藤原氏摂関政治鎌倉時代の北条氏の執権政治等がそれに当たります。


なぜ、彼らは自らの実権を振りカザなかったのでしょうか。天皇をサポートする立場であった藤原氏の場合ならともかく、北条氏の場合には、自らも武家であり、源氏の血統が途絶えているわけですから、将軍に成り代わるチャンスはいくらでもあったはずですが。

1219年、鎌倉幕府の3代将軍の源実朝が不運にも将軍の後継者争いに巻き込まれ暗殺されてしまい、源頼朝から流れる源氏の正統な血筋断絶すると、鎌倉幕府は頼朝の妹の外孫にあたる当時たった2歳の藤原頼経を京都から将軍といて招き入れ、承久の乱を経て1226年に4代将軍となります。これが摂家将軍の始まりです。

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豊臣秀吉のために全財産を投げ打って関ケ原の戦いに挑んだ石田三成

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主から与えられた財産は主のために使えが戦国のルール

石田三成と言えば、関ケ原の戦いで敗北した負けた武将としてのイメージがほとんどですが、秀吉の下で小姓の身分から関ケ原で西軍を率いる将にまで出世したのでそれはそれは大変優秀な武将で、戦後時代の成り上がりを体現している武将の一人です。

石田三成は、小姓として雇い、自分を拾ってくれた豊臣秀吉のことをとにかく尊敬し、慕う忠臣でした。それを表す記録として、石田三成は普段からこんなことを言っていたそうです。

「奉公人は主人からもらったものも使い切りのこしてはならないオスのであればそれは盗人というものだ。」

現在の我々サラリーマンから見ると会社からむ給料を会社のために使うということでしょう。少し奇異な感じがしますが、こういう考え方は当時としては低めへした。

もっとも、じゃんじゃん遣えばいいとってはいません。遣い過ぎて借金をするような者はバカだ、と斬って捨てるように言っています。

読者の皆さんもご承知の通り、戦国時代の大名は、家臣に対して領地が、蔵米といわれる米そのものは与えて、彼らを養っています。

しかし、主人が家臣に対して領地を新たに働いて収入が増えた場合、その心は、「贅沢をしろ」ということではありませんでした。「兵を増やしてさらに強力になって主人の役に立って」ということでした。

したがって、収入が増えても自分のために使えることはほとんどありません。最も、家は大きくなります。足軽の住む長屋から、秀吉のように一国一城の主になれば、家も城ということになります。


しかしながら、それも「防衛拠点をしっかり守れ」ということでしかなく、富豪が豪邸を構えるとは、まるで意味が異なりました。

ちなみに織田信長の家臣には秀吉と並ぶ佐久間重盛という老臣がいましたが、「加増しているのに、兵を新たに雇わず自分のために使っている」ということを罪科の一つとして、身ぐるみはがされそうな勢いで息子と二人放り出されたほどでした。


戦国の人にとって、収入が増えるということは、こうした意味があったのです。

精勤と才覚の三成

三成は、秀吉の小姓の実から、佐和山城を本拠とする19万石余の領地の主にまで出世します。秀吉の死ぬ三年前のことでした。


三成は加増野意味をくみ取るという意味では、徹底しています。そのことは三成が関ケ原で敗北した際、この三成が居城が攻め落とされたときに、明らかになりました。

城を落とした徳川方の諸将は、喜び勇んで佐和山城に飛び込みます。

何しろ、このとき、莫大な富を誇る豊臣家の五奉行の一人になった男の城です。相当な財貨がそこにはあるだろうと期待しました。

しかし、佐和山城に入ってみると、あまりのことに諸将は拍子抜けてしまいました。

城は質素そのものだったからです。

三成が普段暮らす屋敷には、土壁が剝き出しで上塗りがなく、城内の多くの建物が板張りで、障子や襖はいらなくなった髪を使い、庭にも目を楽しませるべき樹木が一つもないという有様だったということです。


「皆々案外にてありしなり」
『名将言行録』にはこのようにありました。


また、城内をくまなく探しても、金銀の類が全然ありませんでした。

関ケ原合戦は、豊臣家が徳川家康に政権を奪われるのに抗った戦です。三成は、その抵抗の首謀者となり、持てるだけの金銀を戦に投じたのでしょう。

三成が普段から豪語していた「奉公人は主人からもらった物を遣って残してはならない」という心情はここでも実践されていたわけです。三成は秀吉からもらった給料を、豊臣家のために吐き出して死んでいきました。


以上は、三成が死に至った際に判明したことでしたが、普段の精勤ぶりは目を見張るものがありました。それを示す逸話は枚挙にいとまがありません。

その一つ。

おそらく大阪城でのことでしょう。大雨が降った夜などは、城周りが破損でしていれば、三成は真っ先にこれを見つけます。

担当の普請奉行が午前十時ごろに秀吉に報告に行くとすでに秀吉は知っていました。三成がその四時間前の午前六時には報告を済ませていました。夜明けとともに城を飛び出して、城周りを点検して歩いた三成が目に見えるようです。


勤務については、その才覚を存分に活用しました。

大阪城付近の堤防が決壊した際のことです。秀吉自身も視察に行ったので、大名級の家臣たちも現場には赴きましたが、解決策が見つからず、堤防の切り口を前にして手をこまねいているばかりでした。

そこで、三成の登場です。大胆な男でした。城の米蔵を米俵を数千俵を切り口に投げ込ませました。たちまち洪水は収まったので、秀吉もその家臣どももその才覚には舌を巻いたという事でした。

それだけではなく、今度は付近の住人達に土俵を用意させ、米俵と順次取り換えさせました。泥水に浸かった米が食べられたのかは知りませんが、三成としては米をみすみす無駄にはしたくなかったのでしょう。こういうところを見ると、なんだか秀吉のやり方を彷彿とさせます。

まぁ、何というか、こうまでして自分のために働いてくれる部下を持ちたいものですね。秀吉もそんな三成を頼もしくも、いじらしく思っていたことでしょう。

そんな秀吉の気分が「俺がもし死んだら、次の天下人は三成がふさわしい」と言わしめました。それが三成を関ケ原の戦いに奮い立たせた言葉だったのかもしれませんね。

のぼうの城 通常版 [DVD]

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のぼうの城は面白かったですね、若かりし石田三成が成り上がるために秀吉の真似をする様子が滑稽に描かれています。

rekiblo.hatenablog.com

蒙古襲来絵詞読み解く鎌倉武士のスタンドプレー

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蒙古襲来絵詞”が書き遺された理由

中学校のとき、元寇の様子を描いた絵画資料として、“蒙古襲来絵詞”を教科書などで見たことはないでしょうか。
左手には毒矢を放つモンゴル軍、中央では「てつはう」と呼ばれる火薬兵器の轟音がとどろき、右手には真っ赤な鮮血をしたたらせ、いななく馬に騎乗しながら奮闘する鎌倉時代の武士の絵が描かれています。

この武士の名は、肥後(現在の熊本県)の御家人竹崎季長です。まさに、「未曾有の国難に決死の覚悟で立ち向かう武士」というキャッチコピーがぴったり当てはまる、迫力ある絵です。


しかし、当時の武士たちが、日本人という民族意識を持って、本当に「未曾有の国難」だと思って、「日本を守る」ために戦ったのでしょうか?


実はこの“蒙古襲来絵詞”は、武功を立てて鎌倉幕府の将軍から恩賞を得たことを子孫や将軍に伝えるために、竹崎季長自身が描かせたものです。この絵には元寇当時(鎌倉時代後期)のの武士たちが置かれていた状況と、元との戦いに臨む意識が反映されています。

鎌倉幕府の政治的・軍事的な基本単位であった惣領制

鎌倉時代武家社会の特徴に惣領制があります。惣領制とは、鎌倉時代の武士たちの血縁的な集団を形成し、鎌倉幕府が全国を支配する上で、政治的・軍事的な基本単位を形成していました。


血縁関係のある一族の長である惣領を中心とした武士団の血縁的統合を惣領制と言いますが、その内部では2つの原則がありました。


一つ目は、惣領の命令には庶子(一族の者)が必ず従うことです。平時には惣領が祭祀などを取り仕切り、戦の時にも惣領が一族の指揮官となりました。こうした強力な権限がありました。


二つ目は、一族の所領を分割相続することです。鎌倉時代の武士は、平時は土着した地域に館を構えて農業に従事しながら所領の支配に当たっていました。惣領も一族の所領を独り占めすることなく、庶子に分け与えてその土地を支配させていました。分割相続を取る理由は、惣領の命令に従ってさえいれば、所領は必ず相続されることが確保されているので、血縁的な絆が保たれていたのです。


そして、惣領性は御恩と奉公の封建主従関係とドッキングすることで、鎌倉幕府を支えていました。


多く御家人は、一族を代表した惣領でした。惣領=御家人は将軍から御恩を与えられると、これを分割相続で庶子たちに振り分けます。そして、奉公として幕府から軍役を仰せ使われば、庶子を率いて戦場に馳せ参じました。


つまり、惣領制は将軍にとっても便利な制度であって、将軍は惣領=御家人とだけ主従関係を結んでいれば、あとは御恩も奉公も一族の内部でうまく回してくれると言う訳です。このようにして、惣領性の血縁的紐帯は幕府を支える基本単位になりました。

この惣領制封建制度の仕組みは、元寇においてもフル稼働します。御家人・武士たちはモンゴル軍の襲来した博多湾岸に集結します。しかし、彼らは「日本軍(幕府軍)」という形で組織・統率されていたわけではなく、血縁単位の武士団(惣領制)が個別に戦っていました。


もう一度、「蒙古襲来絵巻」を見れば、3人のモンゴル兵がフォーメーションを組んでいることが分かります。モンゴル軍はこのころから集団戦法をとっていましたが、日本の武士は1対1でモンゴル兵士に戦いを挑みます。一昔前のヨーロッパ勢と南アメリカ勢のサッカーの試合のような構図です。

鎌倉武士はなぜ一騎打ちを挑んだのか?

しかも、日本の武士は「やあやあ我こそは、肥後の国の竹崎季長である」と名乗りを上げてから、敵に対して一騎打ちの戦いを挑みます。正々堂々と敵に向かう日本の侍・武士の独特の美徳のように思われがちですが、実際には将軍から恩賞を受け取るために自分の名前を叫ぶ必要な作法でした。


写真や動画がもちろんないこの時代、自分がどれほどの戦功を挙げたのかを、戦の後で証拠立てる必要がありました。そのためには、戦場でも名乗りの声を周囲に聞かせる必要がありました。この名乗りの作法は、モンゴル軍に対してではなく、後で恩賞を受けるため味方に対して行ったものなのです。日本語が通じるわけがないモンゴル人に自分の名前を聞かせたところで意味がありませんからね。


恩賞が目当てとすれば、武士が“誰が最初に敵軍に突っ込むか”先駆けを争った理由も分かります。恩賞は先駆けをした者に与えられる、それが武家のならいだったのです。


蒙古襲来絵詞”の詞書(台詞)には、「みかたは続き候らん。御待ち候て、証人を立てて御合戦候へ。(現代訳:見方は続いておりますので、お待ちになって証人を立ててからお戦いになったらいかがですか?)」と忠告する家来に対して、竹崎季長が「弓矢の道、先を以て賞とす。ただ懸けよ。(弓矢の道では先陣を切ったものが恩賞を貰うことになっている。ためらわず先駆けよ)」とハッパをかけている場面が記されています。


味方を待った方が、誰が先駆けたのか知らしめることができますからね。家来の忠告の意味も良く理解できます。敢えてこの場面を書かせたのは将軍にアピールするためのものですね。


一騎打ちを挑んだ理由も同様です。1対1でなければ、誰が戦功を挙げたのか判断がつかなくなってしまうからです。だからこの時代の武士には、「全軍一丸となって」といったチームプレーの精神のかけらもありません。


蒙古襲来絵詞”にはこのような場面があります。上陸してきたモンゴル軍を同じ肥後の御家人菊池武房が数百騎の軍勢で挑み止めたのを見て、竹崎季長はわずか5騎の手勢で立ち向かおうとします。「恩賞が欲しい」、その思いが季長に集団戦略を無視したスタンドプレーを取らせたのです。


博多湾への石築地の建設なども命じられました。ですが、血縁単位の武士団が個別に請け負いましたから、まだらになっていたそうです。

竹崎季長を先駆けに向かわせた事情

それにしても、モンゴル軍を待ちかまえるのではなく、日本の武士たちはわざわざ先陣を切って飛び出しますが、干潟に足を取られたところにモンゴル軍に毒矢の雨を浴びせられるわけです。危うく命を落としそうになってまで、竹崎季長を先駆けに逸らせたものは一体何だったのでしょうか。


元寇のあった鎌倉後期の頃、多くの武士は困窮にあえいでいました。その理由としては貨幣経済の発達による出費の増大・分割相続の繰り返しによる所領の細分化などが挙げられます。仕方なく先祖伝来の所領を譲り、家来として仕えた武士も多くいたそうです。


そうしたことに「モンゴルの襲来に備えて異国警固番役につけ」といった幕府の命が来るのですから、その見返りの報酬を期待しないわけにはいきません。竹崎季長もそうした一人と馳せ参じ、先駆けを争ったのです。


1回目の元寇である文永の役がモンゴル軍の撤退で終了した後、季長は肥後に戻って恩賞はまだかと首を長くして待ちました。しかし、いつまでたっても鎌倉幕府から知らせは来ません。しびれを切らせた季長は、肥後から遠い道のりを歩き、はるばる鎌倉へ向かいます。そして、恩賞奉行を務めていた足立奏盛の邸宅まで出向き、家来に描かせた“蒙古襲来絵詞”を見せながら恩賞の直訴に及ぶのです。


奏盛は、季長の執念に負けたか、所領安堵の下文と馬を与えることになりました。「蒙古襲来絵詞」にも続きを書いて、恩賞を授与される場面がバッチリと描かせました。これで、竹崎季長が「蒙古襲来絵詞」を子孫に残した理由も理解できるでしょうか?


いわば“蒙古襲来絵詞”とは、サラリーマンが上司に説明するためのプレゼン資料でもあって、子孫に対しては自分の功績を残すための給与明細と言ったところでしょうか。


「死に物狂いで先駆けて、所領を取り戻したのは自分である。子孫たちよ記憶にとどめておけ」武士たちにはやはり、「未曾有の国難から国を守ろう」といった意識はなかったんだと推測できます。


しかし、事実としては、困窮という現実に直面した武士たちの利己心によって、確かに日本は守られたのです。このときにモンゴルに支配されていたら日本はどのような国になっていたのか、今とは全く違う状態になっていたのかもしれません。


ちなみに元寇が失敗に終わった理由は?というと

元の由来は、13世紀の初め、モンゴル高原に現れたチンギス=ハンは、ユーラシア大陸一帯を支配下においていたモンゴル帝国ですチンギス=ハンの遺産を引き継いだ孫のフビライ=ハンは、国号を元に改めて中国の支配に乗り出しました。そして、朝鮮半島の高麗を服属させると、次の標的として日本に朝貢を求めてきました。


このとき、受けて立ったのが、まだ20歳にもならない若き8代目執権・北条時宗でした。北条時宗は、元から朝貢を拒否しました。


鎌倉幕府の返答によって、フビライ=ハンは日本侵攻を決定します。

しかし、騎馬民族の出自で海には不慣れなフビライは、日本への使節の派遣・軍船の建造などに、高麗の政府や人民を利用しました。しかし、それは無理な負担を強いるものです。高麗の人たちも大いに反発しました。


高麗の宰相が使節の引き返し工作を図った様子を伺うことができます。


元寇の少し前、三別抄の乱と呼ばれる高麗の軍隊の抵抗を描いています。三別抄は、高麗王室の護衛にあたった選抜の精鋭軍でしたが、江華島済州島などを拠点に抵抗したのです。ここでは、鎮圧されたのが1273年、つまり、文永の役の1年前であることに注目して下さい。三別抄の乱によって日本征討は遅らされたのです。


人民を軍船建造に徴発したことも分かりますが、「期日までに完成させた」という記述が残っており、無理な突貫工事で粗略な軍船ばかりであったことを想像させます。当時のモンゴル人には船を作る技術がなく、突貫工事であることに気付けていなかったわけです。時ならぬ暴風に軍船が耐えられず、撤退を余儀なくされた要因の一つにもなりました。


そして、モンゴル軍は混成軍であったことから、そもそも士気は高くありません。神風と呼ばれた台風が博多湾を直撃したことで、突貫工事の船が倒壊してこうして元寇は失敗に終わりました。


フビライは3回目の日本征討も計画していたようですが、日本以外のアジアでもベトナム等でも抵抗の動きがあったため、断念せざるを得ませんでした。このように、俯瞰的で世界史的な観点から見れば、日本の武士だけの力ではなく、アジア全体の人たちによって日本は救われた結果になったと言えますね。


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西欧諸国に翻弄されながら開国を迫られた清、そして革命と日中対立へ突き進む

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イギリスなどに強制的に開国を迫られた清

乾隆帝時代も後半になると衰退の兆しが表れ始めます。イギリスやフランスなど海外からの圧力が加わるようになったのです。

乾隆帝は海外貿易の窓口を広州に限定していましたが、産業革命を果たしたイギリスが貿易の拡大・自由化を求めてくるようになりました。しかし、清は「広大な領土を誇るわが国に、輸入しなければならないものなどない」と、イギリスの要求を突っぱね続けました。開国を迫る西欧諸国に対して傲慢な態度を示していたのかもしれませんね。

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漢民族の王朝を復活させた明、満州民族の清が現在の中国の基本を創る

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漢民族が自分たちの帝国を復活させる

モンゴルの元に代わって中国を統一したのが、朱元璋(のちの太祖・洪武帝)が成立させた明でした。朱元璋は金陵(現在の南京)に首都を置いて、漢民族による統治の復活を高らかに宣言しました。

そして、朱元璋は地主勢力の支持を得るために儒教を取り入れて、諸将に向けては仁義による政治を行い、民衆に対しては良民であることを力説し、支配体制を確立しました。


朱元璋自身は貧しい農家に生まれ、物乞いから這い上がった身分でした。朱元璋は自身のような極端な立身出世は乱世だからこそ許されるものとして、朱元璋は安定した社会を維持し、秩序を守る意識を民衆に浸透させるための手段として、儒教を活用しました。

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