ルイ十六世の死刑を執行したシャルル-アンリ・サンソンの苦悩

ルイ十六世の首を持ったシャルル-アンリ・サンソン

ルイ十六世の死刑を執行した呪われた一族

ルイ十六世の死刑を執行したのは、シャルル-アンリ・サンソンとい男でした。彼の出身であるサンソン家は、代々世襲製でパリの死刑執行人を務めてきた家系で、シャルル‐アンリはサンソン家の四代目当主でした。


処刑人一族であったサンソン家は、人々に忌み嫌われ、蔑まれ、差別の対象でした。街で処刑人を見かけると、人々は目を背け、身体が接触しないように身をかわしていました。死刑制度が存続する限り、誰かが刑を執行しなければなりません。死刑制度に賛成する人たちにとっては、死刑執行人は自分の考えを実行に移してくれている人達です。死刑判決に喝采する人が判決を執行する人に目を背けるというのは、ずいぶんと身勝手なことですけどね。


世間からのけ者にされてはいましたが、医者を副業にしていたこともあって、サンソン家は経済的にはかなり裕福で、広壮なお屋敷に住み、貴族並みの暮らしをしていました。

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「徳川四天王」井伊直政、本多忠勝などの子孫は明治時代以降も受け継がれていた

井伊直弼の最期になった桜田門

徳川四天王」は戦国時代が終わった後も受け継がれていた

主に武力と忠義をもって、徳川家康を支え、その天下取りに比類なき貢献を果たした酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政。泰平の世が訪れた後、彼ら「徳川四天王」とその家系はどうなったのでしょうか?

大老職を輩出し続けた井伊家

4人のうちもっとも最期が知られているのは井伊直政でしょうね。四天王の最年少でありながら、知勇を兼ね備え、晩年の家康からもっとも信頼を受けた直政は、1600年の関ケ原の戦いで島津軍追撃中に銃撃を受け負傷し、その傷がもとで2年後に没しました。

上野国箕輪12万石の時代は善政を敷いて領民には慕われていましたが、その反面、部下の些細なミスも許さず盛んに手討ちにしたため、“人斬り兵部”と恐れられていたといいます。

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織田信長よりも先に比叡山を焼き払った“クジ運の強い”将軍・足利義教

兵庫県加東市安国寺にある義教の首塚とされる塔

室町幕府でもくじ引きで決まった“足利義教”の恐怖政治

室町幕府獏に府は歴代15人の将軍がいたが、「くじ引き」という前代未聞の選出方法で6代将軍に就いたのが足利義教です。


1425年に5代将軍・義量が19歳の若さで夭折すると、幕府は将軍空位の時代が続きました。そこで、「神意」として石清水八幡宮のくじ引きを行い、4人の後継候補から選ばれたのが、3代将軍の義満の五男で天台宗に入っていた義圓でした。1429年、義圓は義教と改名し、室町幕府6代将軍となりました。


将軍となった義教は、父・義満にならい、失墜した幕府権威の回復と将軍による専制政治を志向しました。そして彼が選んだ政治手法は、強引かつ峻厳な「恐怖政治」でした。

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金閣寺を建てられる程、財産に恵まれいない室町幕府、室町幕府の経済破綻が戦国時代の始まり

室町時代を代表する金箔張りの豪華な建築物、その裏では・・・

予算が少ない室町幕府、酒屋と金貸しに頼る

南北朝時代は、後醍醐天皇の死とともに事実上、終焉しました。実質的には10年にも満たない期間です。しかし、この南北朝時代は、室町幕府の財政に大きな影響をもたらすことになり、ひいては戦国時代到来の遠因になってしまいました。

というのはこの南北朝時代室町幕府の中で揉め事が起きると、すぐに反対勢力が南朝に加担します。こういった構造多発したのです。そのため、室町幕府は自陣の勢力を少しでも増やすために、自分の直轄領を削って武家を引きつけようとしてきました。その結果、直轄領が少なくなっていたのです。

『直轄領が少ない』とは裏を返せば『直属の兵が少ない』ということです。直轄領が少なければ養える御家人の数も必然的に減っていくわけです。

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井伊直虎だけではない、強く美しく戦国時代を生きた戦国姫

龍潭寺境内の井伊氏一族の墓。左から直政、おひよ、直親、直虎、祐椿尼

井伊直虎だけじゃなく、武闘派の戦国女子たち

大河ドラマ「おんな城主・直虎」も、高橋一生演じる小野政次が処刑されて、いよいよ佳境に差し掛かっていますね。

「おんな城主・直虎」のヒロイン・井伊直虎は、戦国時代に男の名前で家督を継いだ「女城主」です。遠江の小さな国の姫が、戦のたびに井伊家の当主が殺され、残された姫が戦国を生き残るための知恵を絞り、必死に家の存続をかけて生き抜くストーリです。

この井伊直虎の奮闘がなければ、徳川四天王にも数えられた井伊直政や江戸時代後期の大老井伊直弼も現れませんでした。

井伊家存続のため、井伊家家臣に裏切り者を最期まで演じさせた小野政次を自らの槍で処刑するシーンは胸にグッとくるものがありましたね。

今日は他にも美貌と武芸で戦国の世を逞しく生き抜いた女性たちを紹介します。彼女たちの中から次の大河のヒロインが出てきたりしませんかね?

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井伊家の復興の活躍は直虎の次の城主・井伊直政

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井伊家の転機でもあった徳川家康との出会い

1561年2月9日、井伊直政遠江の国井伊谷祝田村で生まれました。父は井伊直親、母は奥山親朝の娘です。虎のように強く、松のように末永く栄えることを願い、幼名を虎松と名づけられました。

大河「おんな城主 直虎」の時代背景初期、虎松が生まれた当時、井伊家は受難の時代を迎えていました。虎松の祖父・直盛が前年の桶狭間の戦いで戦死したのを始め、井伊家では虎松の父・直親や曾祖父・直平を相次いで亡くしていました。


その後、還俗した直虎が虎松の後見人となるも、主君・今川家との軋轢で井伊谷統治権を剥奪され、虎松と直虎は龍潭寺に身を寄せることになりました。直後、今川領は武田家と徳川家の侵攻にあい、井伊家の領国と家臣団は侵攻してきた徳川家の傘下に収められてしまいます。

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なぜ徳川家康は秀頼を執拗に追い詰めなければならなかったのか?

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関ケ原の戦い勝利した後も徹底的に豊臣を攻撃した徳川家康

関ケ原の戦いが終わった後になっても、徳川家康豊臣秀頼を執拗に追い詰めたことはよく知られた話ですね。関ケ原の戦いをきっかけに明らかに豊臣方には徳川家康に対抗できるだけの力は残っていなかったはずなのに・・・

方広寺の鐘名「国家安康」を捉えて@家康の滅びを祈念している」と難癖をつけたり、「大阪城の外堀を埋める」という約束で停戦したのに「内堀」まで埋めてしまったり・・・


手段を選ばず徹底的に豊臣家を滅ぼしてしまったのです。そうした数々の所業のために、家康は「悪役」や「悪タヌキ」など悪いイメージを付けられたとも言えます。大阪夏の陣真田丸など最近の家康については敵役になっていますよね。

それにしても、なぜ家康はこれほどまでに執拗に豊臣家を滅ぼそうとしてしまったのでしょうか?

関ケ原の戦いの後、豊臣秀頼は秀吉時代の蔵入地を大きく失って、65万石程度の大名にしか過ぎませんでした。石高だけを見れば、豊臣秀頼は家康を脅かすほどの地位にすらなかったわけです。また、豊臣の恩顧の大名たちのなかでも“豊臣離れ”の動きが進んでいました。豊臣家が力を失うのは、時間の問題とも言えました。

しかも、豊臣秀頼は家康にとって、孫娘の伴侶です。なのに家康はそれでも秀頼叩き、豊臣叩きの手を緩めませんでした。

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