イギリス十七世紀の喧騒、ピューリタン革命のリーダー・クロムウェルも残虐な独裁者だった

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教科書では習わないピューリタン革命の真実

十七世紀は、イギリスの歴史の中でもとても騒々しい時代だと言われています。十七世紀のイギリスと言えば、ピューリタン革命に代表される革命期に当たります。十七世紀の100年の間で王政→共和制→王政と目まぐるしく変わりました。

ピューリタン革命とは、中学の時の教科書のイメージでは、それまでの絶対王政から共和制に移行した、君主つまり王以外の人間が民衆に政治が移った革命だと理解していましたが、実際のところ大きな勘違いをいていたなと思います。

ピューリタン革命の主導者であったクロムウェルは、民衆の代表として王から政権を奪い、民主化を進めた人物と勝手に思っていましたが、結局のところ残虐な独裁者だったのです・・・だから、結局ピューリタン革命後の共和制は長続きせず、15年程度で王政が復活することになりました。

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世が世なら名君にもなり得たルイ十六世

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※ルイ十六世の肖像画

プルボン家5代目当主ルイ十六世

フランスの君主の家系は全部で4つあります。481年に王位についたクローヴィスを開祖とするメロヴィング家、751年に王位についたペパンを開祖とするカロリング家、987年に王位についたユーグ・カペー家、1804年に皇帝に即位するナポレオンを開祖とするボナパルト家の中の4つです。


1328年から1589年まで王位にあったヴァロワ家と1589年以降王位にあったブルボン家はともにカペー家の中の傍系で、王政廃止後にルイ十六世が『ルイ・カペー』と呼ばれるようになったのはこのためです。
フランス革命前の社会システムは、総称して「旧体制(アンシャーム・レジーム)」と呼ばれていますが、その根幹をなすのは絶対王政でありました。絶対王政は、ブルボン家三代目の国王、太陽王ルイ十四世の時代に完成の域に達しました。


『王権神授説』によって地上における神の代理人とされた国王が絶対的権限を持ち、何よりも『生まれ=血筋』が第一とされる身分社会でした。現在の我々の社会は三権分立に基づいていますが、絶対王政においては行政・立法・司法の権限も国王に集中していました。

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武田信玄は長篠の戦いを予想して、病をおしてでも西上作戦をしなければならなかったのでは?

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武田信玄は経済的にも大きなハンデを持っていた

織田信長の最大のライバルと言えば誰を思い浮かべますか?私の場合、織田信長とこの人が戦をすればどっちが勝ったのだろうか?と考える人は武田信玄です。


織田信長の最大の危機と言えば、武田信玄が信長包囲網の陣を採ろうとした西上作戦の時期だと思います。しかし、武田信玄は西上作戦の途中、志半ばで病に倒れることになりました。武田信玄の享年51歳、なぜその歳まで織田信長と戦をしなかったのだろうか?どうして病気を押してまで戦に臨んだのか?いろいろと謎はありますよね。


武田信玄と言えば、甲斐の国の守護大名から、信濃川三河、上野を平らげ、最盛期の最大版図は百万国近くを持っていた戦国時代を代表する戦国大名です。


そんな武田信玄織田信長が争ったのは、武田信玄の晩年です。信長に対決を挑んだ西上作戦では、織田信長をあと1歩まで追い詰めながら、自らの死によって、結局果たせずじまい。もし武田信玄が病で倒れなかったら、武田信玄が信長に代わって天下を取っていたのではないかという説も根強く残っています。

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世界大恐慌中に日本の造船技術が向上して欧米諸国との経済摩擦に

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日本の造船業の発達がイギリスとの経済対立に発展

明治以降、日本は奇跡的な経済成長を遂げてきた。明治維新から第2次世界大戦までの70年間で、日本のGNPは約6倍に増加しています。実質賃金は約3倍、実質工業生産は約30倍、実質農業生産は約3倍になっています。

しかし、日本の経済成長は喜ばしいことばかりではありませんでした。日本経済が急成長したことで欧米諸国との間で、しばしば経済対立を生むようになっていたからです。

日本は、産業の近代化により、これまで欧米が持っていた輸出シェアを奪っていくことになります。

例えば造船業です。

明治初期の日本では、船舶の多くを輸入していました。そして、その輸入元はイギリスを始めとする欧米だったのです。特に日露戦争で主力を張っていた戦艦のほとんどがイギリスであり、軍艦の輸入はイギリスに依存していました。

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石見銀山の散歩道をぶらり歩いて毛利元就を憂いた

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宝の山“石見銀山”を領有していた毛利元就

戦国時代、全国統一のところまであと一歩だったのは織田信長は当然のお金持ちです。しかし、織田信長よりも圧倒的な経済力を持っていたかもしれないのが毛利元就です。

毛利元就は、絶頂期には中国地方の全域の8ヵ国に領土を広げ、北九州地方にも進出していた大国を築いた戦国大名です。

しかも毛利元就石見銀山というまさに宝の山を持っていました。石見銀山は当時、世界的にも知られていた銀山です。石見銀山の銀は、日明貿易南蛮貿易倭寇などにより世界中にばらまかれ、世界経済を変えたとまで言われていました。晩年の毛利元就石見銀山さえも制圧していたのです。


経済力から言うと、織田信長にも圧倒した力を持っていたはずです。にもかかわらず、毛利元就は信長の後塵を拝したのでしょうか。


簡単に言えば、石見銀山を持っていながら、うまく活用できなかったのです。

石見銀山は「石見銀山旧記」や「石見銀山紀禄」などによると、鎌倉時代の武将の大内弘幸が霊言によって迩摩郡仙の山で銀を採ったことが始まりとされ、南北朝時代には足利尊氏の息子である足利直冬が石見を攻めて銀山を制圧し、銀を採取したと言います。つまりは、鎌倉時代から、銀山として開発されていた山でした。

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日本最初のクーデターを成功させた武将・源頼朝

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源平合戦は旧式の武士団と新興の武士団との戦でした

源平合戦は、西の武家の棟梁だった平家VS東の武家の棟梁である源氏の決闘というイメージがされていると思います。

確かに結果としてはそのイメージで間違いありません。しかし、両者にとって圧倒的な違いがあったのは武士の気質でした。平家が率いていた武士団と源氏が率いていた武士団の本質から全然違う集団でした。

平家が率いていた武士団は、旧来の朝廷のシステムによって集められた集団でした。

一方で、源氏が率いていた武士団は、東方で新たに勃興してきた階層を、源頼朝が束ねて作られた武士団でした。

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成り上がり毛利元就はつぶやきで戦を巧みに操作した

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年収を100倍にした元就

今回は、毛利元就の話をしたいと思います。

安芸国(現在の広島県の西部)吉田の三千貫の小身から山陰山陽十ヵ国の主となっていました。戦国時代のサクセスストーリーの典型のような男です。


といっても、名前は聞いたことあるけど、ピンとこないなぁといいう人のために、織田信長を基準にして少し紹介してみます。

元就は、信長の37歳も年上。なので、戦国武将としては、信長などよりよほど年季が入った男です。

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