黒船来航から裏目裏目に出た江戸幕府の対応

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黒船の衝撃と、通商条約の締結

嘉永6年(1853年)、アメリカのペリー提督による4隻の軍艦、いわゆる黒船が横浜の浦賀沖に来航しました。

彼らは日本との交易を求め、大統領の親書を携えてやってきたのです。しかも、「断れば一戦も辞さず」という強硬姿勢さえ持っていました。

これには、もちろん日本中が驚きました。そして、アヘン戦争の経緯を知っていた幕府や諸藩の知識人たちは「ついに来たか」と腹をくくったと思います。

江戸時代、日本は鎖国していましたが、情報を全く遮断していたわけではありません。長崎、琉球対馬松前の4つのルートから、海外の情報が入ってくるようになっていました。朝鮮とは定期的な通信をしており、清とも国交がありました。

また、西欧で唯一国交のあったオランダからも、世界情勢が入ってきていました。江戸時代から日本の知識人たちは、欧米列強についても情報を持っていました。

そして、アジアの大国である清が、イギリスの強引なアヘン輸出と武力侵攻に遭い、国家の存亡を揺らがされるような大変な目に遭ったという情報ももちろん入手していました。

アヘン戦争終結した年の2年後には、オランダの王から次のような書簡が幕府に届いています。

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自由の女神がなぜ女性像になったのか?

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自由の女神はどうして女性像?

自由の女神のことを知らないという人は少ないと思うのですが、アメリカ合衆国の自由と民主主義の象徴として、ニューヨークのリバティ島にある「自由の女神像」です。

自由の女神は、女性像なのだから、女性がモデルになっているのですが、どうして自由を象徴する像が、男性像ではなくて女性像になったのでしょうか?

そもそも自由の女神像フランス革命と関係があります。

あの自由の女神像は、アメリカ独立100周年を記念して、1886にフランスがアメリカにプレゼンとしたものです。だから、あの自由の女神はフランス人女性をモデルにしたもののはずです。言われてみれば、顔つきもなんとなく、フランス人っぽく見えてきますかね?

フランスの人々が自由を象徴する像を女性にしたのは、フランス革命の影響によります。

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イギリスの伝説の王アーサー王と、そのアーサー王の威光を借りたイギリスの王

King Arthur: Legend Of The Sword

イギリスの伝説の王は物語の中の王?

私にはイギリス人とりわけイングランド人は情熱に任せてお茶をしたり想像の羽ばたきに我を忘れることなどあまりない実用主義が多いようなイメージがあります。そんなイングランド人とは反対に、アイルランドなどに住んでいるケルト人には、超自然的な物事への感受性が鋭く、自然に神が宿るといった言い伝えが多く、妖精や小人巨人など自然に対する脅威を巨人の襲来などいったり、幻想的なイメージがありますね。


実はイングランドでも、中世には他のヨーロッパ諸国のように幻想世界に遊ぶことが多かったのです。そうした幻想譚を醸成したセンターの1つが王侯の宮廷でした。宮廷貴族たちが民衆の伝承を取り込み、不思議なお話を物語化していたのです。とりわけイギリス人を熱狂させたのか、アーサー王です。

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イギリスが世界を征服できたのは食に対して無頓着だったから

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物議をかもしたフランス大統領の言葉、イギリスの料理がまずい。

2005年7月、7年後の夏期オリンピック開催地がロンドンかパリかで決定する直前のこと、当時のフランス大統領ジャック・シラクは、「イギリス料理はフィンランドの次にヨーロッパでもっともまずい、そんなまずい料理を食べている人たちは信用できない。」と発言したことで話題になりました。

私も心からシラクに同調したくなる、ぐらいに苦い経験をイギリスでしたことを何度かしていますが、“美味しい”と“まずい”は主観的な判断であって、私個人の感想なのかもしれません。イギリス人には自国の食べ物がおいしくない、という感覚はないのかもしれません。(とばっちりをくらったフィンランドもかわいそうですね。)


さて、イギリスの料理は本当に誰からみてもまずいのでしょうか?そこにはどんな原因があるのでしょうかね。もちろん、気候風土が作物栽培に向いていないという自然環境の差はあるのでしょうが、それはン技術革新や世界的な農作物流通で解決されうる問題なんじゃないでしょうか。

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38年戦争、日本で最も長い戦争は平安時代にあった

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平安時代は決して“平安”ではなかった

平安時代に対して皆さんはどんなイメージがありますか?

平安時代といえば、藤原道長り筆頭に、優雅で贅沢な貴族たちの時代です。平安の名の通り、争いごとは少なかったと勝手に勘違いしてたりしませんか?

実は、平安時代も、ちっとも平安なんて言えず、日本のあちこちね内乱に明け暮れていた混沌とした時代だったのです。

東北地方を中心に蝦夷と呼ばれる反抗勢力平安時代の朝廷は悩まされ続けていました。

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民衆と王に愛され、悪徳裁判官たちを懲らしめたロビン・フッド

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イギリスの民衆のヒーローとして伝わるロビン・フッド

イギリスの伝説として、ロビン・フッド伝説があります。アーサー王が王侯貴族の模範だとすれば、民衆たちのヒーローこそがロビン・フッドです。


今日、語られているロビン・フッド像は、中世の伝説のアウトローとはかなり違うかもしれません。


近年の伝説が16世紀から17世紀の劇作家によるものなのに対し、中世に広まったのは放浪のミンストレルによって歌われた口頭伝承で、もろもろのバラッドに生き残っています。


ロビン・フッド伝説の起源は不明ですが、おそらく14世紀前半ではないかと考えられています。

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江戸時代の変化がよく反映された元禄文化と化政文化

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※天下の台所と呼ばれた大阪の現在の様子(道頓堀)

江戸時代を代表する文化、元禄文化と化政文化はどう違うのか

江戸時代には代表的な二つの文化がありました。17世紀後半の元禄文化と19世紀前半の化政文化です。元禄文化と化政文化については、特徴や担い手など様々の面で対照的な性格を持っています。元禄文化と化政文化の違いを理解することができれば、17世紀後半から19世紀前半にかける100年間で近代化の流れを理解することができます。大学の日本史の試験でも元禄文化と化政文化の違いを理解しておけばなんなく解けた問題があります。

まず、17世紀後半・元禄文化の担い手となったのは、上方(大阪・京都)などの町人です。特に大阪は、17世紀後半に全国流通網が完成すると全国各地から産物が集まって、経済的な繁栄を謳歌していました。このころの大阪は「天下の台所」と呼ばれていました。


この当時の大阪は、藩の治世から独立して、惣年寄を中心にした町政も自治的に行われてきました。大阪の町人は、自分たちが大阪を支えているといった自負があったことでしょう。


元禄期の職業的な俳人であった小西来山が詠んだ「お奉行の名さえ覚えずと暮れぬ」という一句があります。そこに表明されているのは明らかに幕府の権威に対する姿勢があります。この句の前書きには「大坂も大坂、まん中に住みて」とありました。※当時の大阪は“大坂”という地名で呼ばれていました。

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