平安時代の悪循環を改革しようとして有力貴族に失脚させられた菅原道真

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朝廷でも無実が証明された後、大宰府天満宮で「学問の神様」・「至誠の神様」として現代に至るまで永く人々の信仰を集める。

名家の出身ではないからこそ大改革の責任者に抜擢された菅原道真

平安時代の悲劇の人と言えば、菅原道真だと思うのです。平安時代で活躍した人物と言えば、菅原道真を挙げる人は多いかもしれません。菅原道真と言えば、学問の神として親しまれている平安時代を代表する人物です。

菅原道真は貴族の家で生まれていますが、意外にも名家の出身ではありませんでした。当時は一部の貴族だけが裕福な生活をしていましたが、菅原氏は、貴族としては地位の低い家柄でした。

菅原道真はこの時代には珍しく自分の実力の身で成り上がった人物であり、学問の神と言われる理由の一つとして、230年間でわずか65人しか合格者がいなかったという最高国家試験「文章得業生」に若くして合格しました。まさに天皇が可愛がるほどの秀才ぶりを発揮しました。

文章得業生の合格後、讃岐守(現在の香川県の知事みたいなもの)の重要ポストに就き、当時の宇多天皇の信頼を得ました。899年には、右大臣、今でいうと首相のような地位までに上り詰めました。

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2018年大河ドラマの主役・西郷隆盛。維新達成後の苦悩


西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて(ル・モンド(Illustré)の速報記事)

維新後の敵は!?征韓論を巡って明治政府が分裂

薩摩藩の下級武士から討幕勢力の中核となり、江戸城無血開城を実現した西郷隆盛は「維新の三傑」に数えられる人物です。戊辰戦争を指導し、その終結を見届けた後は鹿児島に戻り、もっぱら藩政改革に従事しました。国政からは一歩引いた立場を取っていました。


しかし、ほどなく盟友であった大久保利通岩倉具視の出仕要請を受けて上京し、明治政府に参画しました。明治4年11月、岩倉使節団の海外派遣で大久保や木戸孝允らが不在になると、留守政府の筆頭参議として中央政権を主導する立場になりました。

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南蛮貿易とキリスト教の布教は表裏一体の関係性

ザビエル会見の地(一宇治城)
※ザビエル会見の地(一宇治城)

戦国経済に大きな影響を与えた南蛮貿易

日本が戦国時代を迎えていた頃、遠くのヨーロッパでは、スペインとポルトガルが、香辛料や金銀財宝を求めて世界中の海に乗り出しました。

いわば大航海時代の始まりです。

ポルトガルはアジアにも食指を動かしており、遠く日本とも交易を持とうとしました。日本で言うところの南蛮貿易ですね。

南蛮貿易は、当時の日本に多くの軍需物資をもたらし、戦国の趨勢に大きな影響与えました。

後世の我々には南蛮船対して、ヨーロッパからはるばるやってくるのだから、貴重品や珍品を細々と運んでいたに過ぎないだろうと言うイメージを持ちがちですが戦国時代の南蛮貿易は我々が思っている以上にダイナミックに行われており、当時の日本の経済の一角を占めていたのでした。

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ルイ十六世の死刑を執行したシャルル-アンリ・サンソンの苦悩

ルイ十六世の首を持ったシャルル-アンリ・サンソン

ルイ十六世の死刑を執行した呪われた一族

ルイ十六世の死刑を執行したのは、シャルル-アンリ・サンソンとい男でした。彼の出身であるサンソン家は、代々世襲製でパリの死刑執行人を務めてきた家系で、シャルル‐アンリはサンソン家の四代目当主でした。


処刑人一族であったサンソン家は、人々に忌み嫌われ、蔑まれ、差別の対象でした。街で処刑人を見かけると、人々は目を背け、身体が接触しないように身をかわしていました。死刑制度が存続する限り、誰かが刑を執行しなければなりません。死刑制度に賛成する人たちにとっては、死刑執行人は自分の考えを実行に移してくれている人達です。死刑判決に喝采する人が判決を執行する人に目を背けるというのは、ずいぶんと身勝手なことですけどね。


世間からのけ者にされてはいましたが、医者を副業にしていたこともあって、サンソン家は経済的にはかなり裕福で、広壮なお屋敷に住み、貴族並みの暮らしをしていました。

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「徳川四天王」井伊直政、本多忠勝などの子孫は明治時代以降も受け継がれていた

井伊直弼の最期になった桜田門

徳川四天王」は戦国時代が終わった後も受け継がれていた

主に武力と忠義をもって、徳川家康を支え、その天下取りに比類なき貢献を果たした酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政。泰平の世が訪れた後、彼ら「徳川四天王」とその家系はどうなったのでしょうか?

大老職を輩出し続けた井伊家

4人のうちもっとも最期が知られているのは井伊直政でしょうね。四天王の最年少でありながら、知勇を兼ね備え、晩年の家康からもっとも信頼を受けた直政は、1600年の関ケ原の戦いで島津軍追撃中に銃撃を受け負傷し、その傷がもとで2年後に没しました。

上野国箕輪12万石の時代は善政を敷いて領民には慕われていましたが、その反面、部下の些細なミスも許さず盛んに手討ちにしたため、“人斬り兵部”と恐れられていたといいます。

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織田信長よりも先に比叡山を焼き払った“クジ運の強い”将軍・足利義教

兵庫県加東市安国寺にある義教の首塚とされる塔

室町幕府でもくじ引きで決まった“足利義教”の恐怖政治

室町幕府獏に府は歴代15人の将軍がいたが、「くじ引き」という前代未聞の選出方法で6代将軍に就いたのが足利義教です。


1425年に5代将軍・義量が19歳の若さで夭折すると、幕府は将軍空位の時代が続きました。そこで、「神意」として石清水八幡宮のくじ引きを行い、4人の後継候補から選ばれたのが、3代将軍の義満の五男で天台宗に入っていた義圓でした。1429年、義圓は義教と改名し、室町幕府6代将軍となりました。


将軍となった義教は、父・義満にならい、失墜した幕府権威の回復と将軍による専制政治を志向しました。そして彼が選んだ政治手法は、強引かつ峻厳な「恐怖政治」でした。

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金閣寺を建てられる程、財産に恵まれいない室町幕府、室町幕府の経済破綻が戦国時代の始まり

室町時代を代表する金箔張りの豪華な建築物、その裏では・・・

予算が少ない室町幕府、酒屋と金貸しに頼る

南北朝時代は、後醍醐天皇の死とともに事実上、終焉しました。実質的には10年にも満たない期間です。しかし、この南北朝時代は、室町幕府の財政に大きな影響をもたらすことになり、ひいては戦国時代到来の遠因になってしまいました。

というのはこの南北朝時代室町幕府の中で揉め事が起きると、すぐに反対勢力が南朝に加担します。こういった構造多発したのです。そのため、室町幕府は自陣の勢力を少しでも増やすために、自分の直轄領を削って武家を引きつけようとしてきました。その結果、直轄領が少なくなっていたのです。

『直轄領が少ない』とは裏を返せば『直属の兵が少ない』ということです。直轄領が少なければ養える御家人の数も必然的に減っていくわけです。

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